最上階に部屋を与えられているジョーは、ジェットに言われた通りに出かける用意をし、部屋を出た。
「ジョー、荷物を運んでほしいんだ。そこにいてくれ。」
階段を上がってきたハインリヒの言葉を聞き、ジョーは頷いて階段を降りようとしていた足を止めた。
ジョーの向いの部屋を使っているハインリヒは、滅多な事でその部屋に自分以外の人間を招き入れる事がない。ジョーも、用件があって彼を呼びに行っても、部屋の中まで足を入れた事はなかった。
ハインリヒは部屋のドアを開け、それを開けたままに固定して部屋の中へ入っていき、ジョーはそこから覗ける部屋の中を見遣った。
自分の部屋の正反対の間取りであるはずのその部屋は、その奥を覗かれる事を拒否するように、1枚の青色がかったグレーの布で隠されていた。その奥でハインリヒが動いている音は聞こえたが、たった一枚の布が、これほどまでに他人を拒否するのだと、ジョーはこの時初めて気付いた。
そして、フランソワーズの部屋を訪れた時に掛けられていた淡いオレンジの布を思い出し、この部屋の布は、部屋を飾るためではなく、他者を拒絶するものなのだと、そう思った。
「急ぐぞ。」
声と共に布の端が持ち上がり、帽子をかぶったハインリヒが、両手に工具箱を持って姿を見せた。
「隣のブロックの教会だ。」
「はい。」
工具箱の一つを受け取り、ジョーは足早に階段を降りる。
「急用って、なんですか?」
「不審物の処理だ。場所を考えると、俺が行った方が早いらしい。」
後ろから返った声は、いつもの彼の声とまるで変わらず、ジョーは驚いて振り返る。
「急ぐ不審物って…」
爆弾だろうか?と、今朝見ていたニュースを思い出してジョーは問いかけた。
「いいから、急げ。」
しかし、足を止めようとすればあっさりそう切り捨てられ、ジョーは仕方なく足を動かし、階段を降りる。
「教会に、怪しい箱が置かれていたそうだ。最近、教会を狙った爆弾事件が多いからな、心配になって通報があったらしい。」
「……昨日も、自爆テロがあったって言ってましたね…」
「いたずらならそれでいいが、本当だったら、周りにも被害が出かねん。あそこはヘリを降ろす場所がないし、この時間は車が混んでいるから、ここからならば歩いても遠くないだろうと、こちらへまわされたわけだ。」
「……ハインリヒが、そんな仕事までしてるなんて、知らなかった。」
その言葉には返る言葉はなく、ジョーは小さく息をついて、口を噤んだ。ハインリヒと親しく口を聞く機会はこれまでにも殆どなかったが、彼が自分の事を語る事を嫌っているのはなんとなく理解できていたのだ。
問題の教会は、彼等の家から通りを4つ越えた場所にあり、日曜の朝ともなれば、礼拝に訪れる信者も多い場所だった。
今日は月曜日で、礼拝に来るものは少なかったが、それでも毎朝訪れるもののために、神父が礼拝堂の扉を開けて、その外に置いてある箱を見つけたのだと言う。
神父は新聞の見出しを思い出し、慌てて警察へ連絡をした。しかし、この教会から爆弾処理班のいる支部庁舎は遠く、月曜の朝のラッシュを避けて移動するには時間がかかる。だが、箱からは時計の音らしきものが聞こえ、時限爆弾ではないかとも思える事で、できる限り急いだ処理をせねばならない。
そこで、近在の警察官が現場の整理をし、委託を受けたハインリヒが、その処理をするという方向が決定したのだと、ここまで歩いて来る間に、ジョーはハインリヒから説明を受けた。
教会近くで完全防備の姿で辺りの警備にあたっていた警官に、ハインリヒはカードを提示して、隣のジョーをアシスタントだと説明し、ジョーは身分証を提示する事で、ハインリヒと共にその先へ足を踏み入れる事を許された。
「ハインリヒ、こういう事、多いのかい?」
警官がハインリヒの姿を見て慣れたように対応するのを見て、ジョーは問いかけた。
「多くはないが、こういうのがいるという話は通っているんだろうな。」
あくまでも、ハインリヒは民間人で、処理を依託されているだけだ。時折、新しい時限装置の解除方法等を調べる為に、研究機関へ呼ばれる事もあるが、そこで会う以外の警官と面識があるわけではない。
「……そう…」
「お前はそこで待ってな。俺が失敗したら逃げろよ。」
そう言って、ハインリヒはジョーの手から工具箱を取り上げると、礼拝堂の入り口へ足を進める。
「行くって。仕事覚えろって言われたし。」
「いいから、そこにいろ。気が散る。」
足元を指差してハッキリと言われ、ジョーはそれ以上何も言えずに立ち止まった。
神経を集中しなくてはいけない仕事をする人間に、気が散ると言われて着いていける人間はまずいないだろう。ジョーもそれにもれず、まして、ハインリヒとの付き合いが長いわけでもないせいで、強引な事はできなかった。
ハインリヒは、特に気負った様子もなく礼拝堂の扉の横に置かれた箱へ足を向け、工具箱を脇へ下ろすとそこへ膝を付いた。
その段ボールでできた箱からは、報告の通りに時計の物らしい音が聞こえている。
「……」
わざとらしく音をたてている事で、ハインリヒは半ば悪戯であろうと予想していたが、これ見よがしの犯行でないとも限らないし、最近の事件を見て、便乗して騒ぎを起こしたい素人の行動であるとも思えなくもないと、その箱の様子を外から眺めた。
本当に爆発物で、それによって被害を与えたいのならば、こんな目立つ場所に置くのは得策ではない。確かに今日のこの時間を考えれば、処理に手間取る事は考えられるが、それでもうまくいく確率の方が断然低いのは少し考えればわかる事だ。
ハインリヒはそう考え、ため息をついて工具箱を開けた。
警察の爆弾処理班などならば、冷凍し固めて持ち出すという方法をとる事が最も安全なのだが、生憎、民間人のハインリヒがそんな機械を持っているわけもなく、時限装置か起爆装置を取り外す処理をするほかに打つ手はない。
そっと箱の上部をくり抜くようにして切り裂き、端を僅かに持ち上げて中の爆発物とコードが繋がっていないかを確かめる。
物に依っては、この蓋をあけるだけの行為で起爆スイッチが入る事もあり、箱を開けるという行動は十分に注意を払わなくてはならない。だが、今回はそれではないらしく、ハインリヒはくり抜いた蓋を取り外し、中を確認して息を吐いた。
中に入っているのは、目覚まし時計一つだった。
ハインリヒは、それを眺め、振動を与えないように手で固定してから、裏のネジ止めを外していく。
その目覚まし時計が、ただの目覚まし時計ならばそれでいい。ただ、それの中に火薬が詰まっていないとは外から見ただけではわからないし、そこで気を抜くわけにはいかないのが、この仕事だ。
ネジを外し、そっと裏板を外し、その中が只の目覚まし時計と変わらない事を確認して、ハインリヒは肩の力を抜いた。
「馬鹿がいやがる……」
ぽつりと呟き、時計を持ち上げると、ハインリヒはそれを細かい部品に分解しはじめる。別段、腹立ちまぎれにしているわけではなく、もし万が一、を考えての事だ。
これは、証拠物件として警察署内に持ち帰られるもので、見た目は何の変哲もない電池が、小型爆弾であっては困るのだ。とりあえず、それ単体であるのならば、よほどの事がない限り爆発する事もなかろうと、ハインリヒはこれまでも、押収物は徹底的に分解することを心掛けていた。
全部の部品を分解し、それぞれを礼拝堂の階段に散らして置き終えると、ハインリヒはジョーを手招いた。
「終わったのかい?」
「悪戯だったようだな。」
「……酷いね…」
「馬鹿馬鹿しいが、不審物なんてのは、大半がこんなもんだ。特に、でかい事件があった後なんかは、便乗犯は増える。ここを見張ってろ、他がないか見てくる。」
偽物一つを目立つ場所に置き、本物は別の場所へ置く。それもよくあるパターンである。
「ハインリヒ?」
「処理屋が来たら、さっきの場所まで戻ってろ。それには絶対触るなよ。」
それだけ言い置いて、ジョーの質問も何も受け付けず、ハインリヒは礼拝堂の周りを歩き始める。
周囲の住人は避難しているし、直接の人的被害は起きる事もないが、この辺りは家やアパートも密集している。爆発が起きれば、物的被害が起きるのは間違いのない事だった。
ぐるりと敷地内を見て歩き、目に付く不審物がない事を確認してから、ハインリヒは教会の敷地を抜けて、隣のアパートへ足を踏み入れた。
本来、こういった確認は警官の職務で、もちろん既に確認は行われている事は間違いないのだが、爆弾屋には爆弾屋なりの注目点というものがある。本職が来る迄は、その確認をするのもハインリヒの仕事だった。
「………なんで、教会なんて狙うかね…」
丸腰で無防備な人間しかいないから。それだけの理由だと言うのなら、確かに狙い目かもしれないが、それならば、病院でも構わないだろうと思う。それなのに、病院が狙われているという話は聞かない。神の居場所だという教会を狙うような人間ならば、病院を狙う事も躊躇わないのではないかと思う。
ならば、狙う理由が別にあるという事だろう。異教徒の絶滅でも狙っているか、神の存在に疑問でも抱いたか、どんな狙いにしろ、平和に暮らす人間にとっては、迷惑きわまりない話だが。
「ハインリヒ!いるか!」
階下から呼ぶ声がかかり、足を止めて下へ向けて答えを返す。
「4階だ。」
答えると、急いで階段を駆け上がって来る足音が聞こえ、しばらくその場で待っていると、数人の処理隊員たちが姿を見せた。
「……頼むから、もう少しきちんと防護を考えてくれないか?」
平服でそこにいるハインリヒを見て、隊長格らしい人物がそう声をかける。
「考えておく。」
「……教会の方は回収をした。世話をかけたな。あとはこっちで確認する。」
「じゃ、また。」
ため息まじりの報告に頷き、ひらりと手を振り、ハインリヒは彼等の上がってきた階段を下っていった。
「ハインリヒ、こっち。」
アパートから出てきたハインリヒが、教会の方へ足を向けようとするのを見て、ジョーが慌てて声をかけると、ハインリヒはそちらへ足を向けなおした。
「あの隊長さん、親しいの?」
工具箱を一つ受け取り問いかけると、ハインリヒは不思議そうな表情を浮かべて首を傾げた。
「さっき、今日はジェットじゃないのか、って言われたから。」
彼は、ジョーの名前も聞かなかったが、それでもそこにいた事で、ハインリヒの助手だと判断したらしく、テキパキと部下に指示を出した後、そう言ったのだ。
ジェットの名前を知っていたという事は、それなりに付き合いがあるのだろうと思ったのだが、そうではなかっただろうかと、ハインリヒの表情を見て思う。
「……親しいとは言えないと思うが……付き合いは長いな。」
しばらく思案した後、ハインリヒはそう答え、ジョーに目を向ける。
「気になる事でも言われたか?」
その問いかけに、ジョーは驚いてハインリヒを見返した。あまりこちらの事を気にかけていないと思っていたハインリヒから、そんな事を言われるとは思わなかったのだ。
「………君もか?って。…一緒に暮らしてる事だと思って、はいって答えたんだけど、普通はそんな事聞かないかと思って。」
彼は、ジョーを見て、どこか痛まし気にそう言ったのだ。
ジョーがあの家に住むようになったのは最近の事で、あの家で暮らす人々の事情を詳しくは知らない。ただ何となく、特別な事情を持っている人々のような気がするのは確かだ。特に、今回のような事があれば、彼等がただの人だとは思えない。
「…彼は、気のいい人だ。他意はないさ。」
「それならいいんだけど…」
ハインリヒの言葉には、納得できるだけの説得力はなかったが、ジョーはおとなしく引き下がるしかできなかった。そして、小さく息をつき、いつかこの隣を歩く人物と、親しく話ができる日は来るのだろうかと、そんな事を考えた