ジェットは自分を見ているジョーの視線を感じ、そこでやっと、自分が随分長い間物思いに浸っていた事に気付いた。ごまかすように苦笑を浮かべてハインリヒがここで暮らすようになった切っ掛けをかいつまんで話すと、ジョーは半分納得顔で問いを返した。
「…で、ジェットは、拾われたんじゃないんだよね?」
「ああ、俺は、転がり込んだクチ。」
仕事をクビになって、収入もなくて、住んでいたアパートから追い出されるという目にあった時、一言二言口をきいた事があるだけの管理人のところへ、手伝いをすると言って転がり込んだのが切っ掛けだった。
だが、仕事なんてものが自分までまわって来る事はなく、既に住人だった張々湖の店を手伝ったりと、はっきりとこの職に就いていると言えない自分に、救いの手を伸べたのが、グレートだった。
結局、探偵助手と言う、これもまた、正業と言っていいのかどうかわからない職を得て、雇用関係が確立されて定期的に給料がもらえるようになったが、やっている事は、ここへ転がり込んだ時から殆ど変わらない。
「……なんか、それも拾われたって言うような気がするけど…」
ぼそぼそと呟いたジョーに反論するのも情けなく、ジェットは手元の雑誌を放り投げてソファから立ち上がった。
「俺が拾われたと思ってないから、俺は拾われたんじゃないの。」
だからって別に、彼を拾ったなんて思っちゃいないけれど。
そんな事を思いつつ、ジェットは部屋を出て階段を5階まで軽い足取りで上り、右手側のドアを叩くと、返事を待たずにドアを開けた。
「アルベルト?」
声をかけてグレーの布をくぐると、ベッドの上に座って、何やら写真を広げているハインリヒが顔をあげてジェットを見返した。
「何だ?」
「さっきさ、ジョーに、アルはどうしてここへ来たのかって聞かれてさ。なんか、ずっと前の話のような気がするけど、そんなに前じゃないなぁと思って。」
初めて会ってから、ほんの2年しか経っていないのに、まるで5年や10年は傍にいるような気がすると、ジェットは笑って語る。
「で、顔見に来たのか?」
「うん。」
ベッドの端に腰を下ろして、そこに広げられた写真を覗き込み、ジェットは表情を曇らせた。
「これは?」
「現場写真。」
焦げた床、血溜り、割れたガラス、諸々の傷付いた物。明らかに、爆発物によって起きた事の結果だとわかるそれは、見ていて気分のいいものではない。
「こんなものまで寄越すのかよ。」
ジェットは、ハインリヒが警察に協力して爆発物の処理に関わっている事をあまり歓迎していないが、それでも無理矢理自分を納得させてはいる。でも、事件後の現場に呼ばれる事や、新しく作られたらしい時限装置の解析などをさせられているのは、やりすぎなのではないかと常々思っていた。
「違う。これは、俺が無理矢理奪ってきたんだ。」
「何で。」
不機嫌をあらわにした表情で問いかけるジェットに、ハインリヒは苦笑を浮かべ、宥めるようにその頭を軽く叩く。
「ウルムビルの写真なんだ。」
その言葉に、ジェットは言葉を失ってハインリヒを見つめた。
「………なんで……」
ハインリヒがこの家へ来る事になった切っ掛けであり、婚約者を失った爆破事件それが起きたのが、ウルムビルだ。あの事件が彼に与えた傷の大きさは、自分には本当の意味で理解できないだろうとジェットは思っている。それを、自分で抉るような事をするハインリヒの考える事は更に理解できなかった。
「自分が何をして生きてきたのか、見ておくべきだと思ったから。」
「でも…」
まだ2年しか経っていない。記憶だってそれ程薄れてはいないだろう。彼がどこか自虐的なのは見ていればわかる。けれど、ここまでする事はないと思う。
「本当は、もっと前から持っていたんだが、流石に恐くて見られなかった。」
そう言ったハインリヒの表情は、普段の彼からは想像できない程に弱く見えて、ジェットはため息をもらしてその肩へ軽く拳を当てて笑う。
「……こういうの見る時は、俺呼んでよ。心配だから。」
「来たじゃねぇか。」
ハインリヒが写真を広げたのは、ジェットがあらわれる僅か前だった。
半年近く、その写真が入った袋を手に取っては、中を見る勇気がなくて、そのまま机の中にしまい込む日が続いていた。それを、やっとの思いで広げた時に、ジェットがやってきたのだ。その2年前の話を持って。
「……そうだけど……」
それは結果論で、ハインリヒがそれを予測していなかったのは明らかなのだ。そういうのは嫌だと、ジェットは思う。
「なぁ。あんたが、そっちから離れようとしないのは何で?全部振り切っちまってもいいだろ?」
しがらみ背負って生きているのが人の常でも、離れられる可能性があるのならば、苦しいだけのしがらみなんて、全部切り捨ててしまえばいいと思って、ジェットは生きている。重い物なんて長い間持っているのは嫌だし、できるのならば、楽しい事が多い方がいいと思う。どうやら、ハインリヒはそれと正反対の考えを持っているらしいが、問いかけずにはいられなかった。
「……俺が言っても説得力がねぇが、爆薬ってのは、血肉散らすためにあるんじゃねぇんだよ。…だから、そういう使われ方をするのは減らしたい。」
血溜りの中に転がる人形の写真を眺めながら、ハインリヒはそう答える。
自分が罪人であるのに、誰もそれを裁かないのだとしたら、それに罰を与えられるのは自分だけだ。ハインリヒは、誰も裁かないから自分に罪がないと言い切れる性格をしてはいなかった。だから、こうして自分にできる事はしようと思う。何もせずに、安穏と暮らす事こそ、苦痛でしかないのも事実だから、それから逃げようとしているのかもしれないが。
「………」
「それに、これ以外に技がないしな。」
今さら、自分に何ができるのかと問われて、胸を張って言い切れる物がない。落ち着いた環境で教育を受ける事ができなかった子どもの頃、学べる事と言えば、父親が持っていた技術だけで、気付けば、それ以外に自分が人より優れている技術なんてものはなかった。
笑ってそう言ったハインリヒを見て、ジェットは盛大にため息をついて笑うしかなかった。ハインリヒが笑い話で済ませてしまいたいのなら、そうしたいと思うのは本当の気持ちだ。
「あの頃、何考えてた?」
それでも諦めきれずにジェットは問いを重ねた。考えてみたら、2年も傍にいて、もっと長く傍にいるような気もしているのに、肝心の話をしていないような気もする。
「何って?」
問い返され、ジェットは写真に目を落とす。
「色々さ。俺は、あんたがどうしたら笑うかな、って思ってたよ。」
顔も見ずにそう答えると、軽く頭を叩かれ、ため息がもれた。
「どうしたら、生きていけるかと思ってた。」
生きていていいのだろうか。ではなく、どうしたら生きていられるか。というのが、その時の一番の気掛かりだった。自分がした事を自覚しても、死ぬ気が起きなかった自分を、時折恐ろしく感じる事がある。ただ生きているだけの人生に、何の意味があると思っていたのかと、思うのだ。
次の朝、様子を見に来たジェットに連れられ、ハインリヒは3階へ降りた。
「おはよう。ハインリヒ。」
顔を見た事もない人から、当然の事のように名前を呼ばれる事がどうにも落ち着かない様子のハインリヒに、当然知っている事として声をかけてしまったフランソワーズは、苦笑を浮かべてその名を名乗った。
「私は、フランソワーズ。4階に住んでるわ。彼がここの管理人のジェロニモ。こっちが張々湖で、そっちがピュンマ。落ち着くまで、よろしくね。」
「……よろしくお願いします。」
考えてみれば、今の自分は身分を証明する物も持たず、金も着替えすらもない、行き倒れと変わらない状態なのだと気付き、ハインリヒはおとなしくそう返した。
一晩落ち着いて考えて、出ていっても逃げ回るだけなのは確かな事と、隠れていれば少しは考えをまとめる時間も手に入るだろうから、暫く世話になろうという結論は出した。
それによってどれほどの迷惑をかける事になるのかに目を瞑った事は、本当は恥じるべき事なのかもしれないが、引き止めたからには幾らかの覚悟もしていてくれるだろうと思う事にした。
だから、彼等とはできる限り良好な関係を築くべきだろうと思ったし、元々、ハインリヒは誰彼構わず喧嘩を売るような性格はしていなかった。
「とりあえず、暫くはここから出ない方がいいと思うわ。何があるかわからないから。」
「窮屈かもしれないが、我慢してくれたまえ。」
「……こっちこそ、迷惑をかける…」
ぽつりとそう答え、開いている席に腰をおろすと、目の前へカップが置かれた。
「それ、ハインリヒのカップね。ほしい物があったら、そこの端末から注文して。ジェットの名前使えばいいから。」
「何で、俺!?」
「文句あるの?」
講議の声をあげたジェットは、すぐさま返った鋭い声に、しゅんとなって首を横に振った。
「ってことだから、遠慮はいらないわ。」
「……あ…ありがとう…」
その様子から、ここで暮らす人々の力関係の一端を、ハインリヒは幾らかの戸惑いを持って理解した。
フランソワーズには、逆らわない方がいいらしい。と。
「この家に暮らす人間のルールは、ここで揃って食事をする事と、この家で暮らすからには、何らかの協力をする事の二つ。ハインリヒはとりあえず居候だから、食事だけここでする事を覚えていればいいわ。」
「わかった。」
管理人よりも管理人らしいフランソワーズの説明を聞きながら、ハインリヒは隣のグレートから回されて来る料理を皿に取り、向い側のジェットへそれを回す。
「そう、そう。最も重要なルールは、出された食事を残らず食べる事ね。」
「たとえどんなに口に合わなくてもね…」
斜め前の位置に座っているピュンマの言葉に含まれる苦い色に、皿に乗ったスクランブルエッグを口に運んだハインリヒは無言で頷いた。
「………」
一瞬静まり返ったその空気の中で、驚く程甘いその味に、母の作った失敗作の味を思い出し、ハインリヒは苦笑を浮かべた。
他人に自分の食べる物を用意させる事のできる信頼関係がここにはあるのだと思い、自分がそれから離れていた事をハインリヒは思い出した。
「この部屋は、住人の共用部なの。何を持ち込んでもいいけど、きちんと片付ける事。」
2周目に入ってもなかなか減らないスクランブルエッグを、失礼でない程度皿に取り、ハインリヒは隣でため息をつくグレートと目を合わせ、二人でそっと肩を竦めた。
「あと…何があるかしら…」
「それぞれの部屋は、当人の許可なく立ち入らない。掃除は各自できちんとする。階段と外は俺が掃除する。」
管理人の説明を取り戻すようにジェロニモが静かにそう言い、フランソワーズもにこりと笑って頷いた。
「どうしても気になるなら、鍵をかければいいわ。1階の入り口が鍵をかけてあるから、あまり他所の人は入ってこないけれど。」
ハインリヒは、その説明を聞いて、先ほど彼女がこのアパートを『家』と呼んだ事と、本来各自の『家』と呼ばれるべきところを『部屋』と呼ぶその意味が理解できたような気がした。
ここにいる住人たちにとって、このアパートに暮らす者が『家族』だと言う事だ。だから彼等は全員分の食事を用意し、揃って食事をする。他人ではないから、いらない警戒をせずにその食事を体に入れるし、口に合わないのだと無言で主張するように皿を回し続ける。
「気が向いたら、住人になってもいいのよ。5階は空き部屋だから。」
にこりと笑ってフランソワーズは言い、ハインリヒはぎこちなく微かに首を縦に振った。家族は、自分を縛る鎖に過ぎないと、そう思っていた自分とは違う人たちがここにいると理解する事が、わずかに痛みを伴う事に驚きながら。
たらたらと終わりが見えなくなりつつあるこの話。もっと早く終わっているはずだったのに、色々説明を入れていたら、終わりやしない…。話を進めるよりも、ここを説明する事が重要視されているわけではないのだが。
このアパート、日本で言うアパートのイメージでなく、平ゼロでジェットが住んでた建物が、階段中心に左右1つずつしか部屋がないような感じの建物のイメージ。知ってる人がいるかわからないけど、わかつきめぐみのぱすてるとーん通信の屋上庭園荘を思い浮かべて頂くと完璧。もしくはシティハンターのあの家。