選択



 その日の朝、まだ起きない赤ん坊を連れてジェロニモが姿を見せると、彼等は揃って首を傾げた。
「実は、人形だったりとかしないか?」
「赤ん坊って、そんなに寝るものじゃないだろう?」
「…実は、夜中に起きたとか?」
「起きたら泣くもんだぞ。赤ん坊てのは。」
 揃って顔を並べてその様子を伺い、彼等は届いた育児書を開いているピュンマに目をやった。
「本にはなんて?」
「起きない赤ん坊の事なんて書いてないよ。」
 眠らない赤ん坊の寝かせ方ならば載っているが、起きない赤ん坊なんて話はない。赤ん坊の起こし方なんて内容だって、本には載っていないのだ。
 それは結局のところ、起きない赤ん坊が普通ではないと言う事ではないだろうか。と彼等は思い至り、これからどうするのだと、管理人に目を向けた。
「……病院に連れていく。」
 何か異常があるのではないかという疑いも浮かび、彼はそう答えた。そうだとすると、それを苦に子供を捨てたという事もあり得ない話ではないのだろうか。色々と、この赤ん坊かここにいる理由を考えつつ、彼等は整えられた朝食の席に着いた。
「今日の予定は?」
「現場。」
「聞き込み。」
「ハインリヒとグレート送った後は、暇。」
「……僕は一日あいてる。」
 流動的な勤務状況を持つ4人がフランソワーズの問いに答えていき、最後になったジョーは戸惑い気味に小さく答えた。
 ジョーにも、仕事を探そうという意志がないわけではないのだが、動き出す事に思い切りがつかず、まだこの家でぼんやりしている時間の方が長い。同じ無職同然のジェットは、一応、被雇用者の立場にいる為、時折雇い主であるグレートからあれこれ指示を受けて動く事もあるのだが、ジョーはただ家でぼんやりしているだけである。それでも、この家の住人たちは何も言わない。家賃すら払っていないのに、である。
「ならば、家でフランソワーズに着いていてくれ。俺は病院へあの赤ん坊を連れていく。」
「車出した方が良くない?」
 ジョーはそう問い掛けてから、そうなると、この家にフランソワーズだけが残ってしまうのだという事に気付いた。彼女の事情を考えると、ここに彼女一人残していくというのは、不安を感じるところだ。ならば、ジェットが帰った後でジョーが送っていく。という方法もあるが、そんな手間をかけるくらいならば、最初からジェットが彼等全員を送っていった方が話が早い。
「…わかった。フランソワーズに端末の使い方でも習ってる。」
「じゃ、朝4人で出ればいいな?」
「吾輩は、今日はトラムで出かけるよ。目立つといけない。」
 ジェットの確認にグレートがそう答え、ジェットは頷いた。
 こういう時、この家の人々は遠慮だと感じるような事を言わないな。と、ジョーは思う。ここで過ごしている期間の違いはあれども、どの人も同じだけ一緒にいるような空気をもって相手に接している。ここへ来て2年だと言うハインリヒでも、誰かに遠慮をする様子はない。と言うよりも、この家の人々は、相手に対して遠慮をしたり、一歩引いたりする行為こそを批難する空気があると、ジョーは思っていた。
 家族だから。と彼等は言わない。でも、どうにもこの家にはその雰囲気があると、ジョーは思う。他人同志が肩を寄せあっていると言うよりも、遠慮容赦がないところなどが、特にそう思わせるのだ。人間、基本的に身内の方が扱いがぞんざいになるものである。
 その一番の証拠が、ジョーとジェットの扱いの違いにあるとジョーは思う。
 ジョーは、一応この家の住人として扱われているが、まだ日が浅い事もあって、自分自身で彼等に世話を掛けているのだという意識が存在している事に気付いている。彼等も多分それを察知していて、車を出す足を決める時も、ジェットがあいていれば、ジェットに声をかける。彼等は、それを彼の仕事だと思っている節もあるのは確かだが、ジョーにあまり長距離の運転を頼まない事も、ジョーはきちんと知っていた。
 いつか、本当にこの家の住人として、この家族の仲間に入る事ができるのだろうかと、ジョーはずっとそれを不安に思っていた。
 フランソワーズも言っていた。彼等が知っているジョーに関する情報を、ジョーが知っているとは限らないと。それは多分、自分の生まれに関する事なのだろうと、ジョーは思っている。多分、フランソワーズは聞けばそれを教えてくれるだろう。それでも、ジョーにはその勇気がなかった。
 顔も見た事のない自分の両親を、知りたいと思う反面で、知りたくないとも思う。知ってしまえば、彼等に会いたくなるかもしれない。そして、何故自分を捨てたのかを聞きたくなるだろう。
 ジョーは背後のソファで眠る赤ん坊にちらりと視線を向けて、彼の立場と自分の立場が似ているのだという事に気がついた。もしかしたら彼は、18年前の自分と同じ状況にあるのかもしれないと。
 
 
 
 
「それじゃ、その端末で勉強しましょう。」
 それぞれの支度を整えて家を出ていった彼等を見送った後、フランソワーズはにこりと笑ってそう言った。
「別に、難しい事なんて何もないのよ。」
 それはきっと、使った事がある人の言い分で、殆どそれに触らずに生きて来た人間にとってみると、それはとても恐ろしいものなのだと、ジョーは心の中で返した。
 この家の住人の中で、それにあまり触らないのは、ハインリヒと張々湖の二人だ。彼等はそれがあまり必要ではない世界で生きているから、触らないだけなのはジョーにもわかる。使うとなれば、彼等が驚く早さでキーを打つのを見た事がある。どうして普段使わないのかと聞いてみたら、起動するのが面倒だからと、ハインリヒは答えた。張々湖は、特に用事がないからと答えたはずだ。
「でも、壊したりしない?」
「大丈夫よ。そんなに脆いものじゃないから。」
 おかしそうに笑って、フランソワーズはジョーに椅子を勧めた。
「性格かしらね。ジェットなんて、壊れたら直すから。って言ってたわ。」
 その割には、きちんと大事に使うのよ。とフランソワーズは笑い、ジョーも思わず笑ってしまった。
 ジェットは、何ごとにも大雑把に見えるのだが、あれで意外に気を回すところもあったりする。この家に来た時、何かれとジョーを世話をしてくれたのはジェットだった。他の人々が放任主義のように構ってくれなかっただけに、ジョーはそれに随分助けられたと思っている。
「挙動がおかしくなったら、呼んでくれれば何とかするから。」
 この家では、夜中でも平気で呼び出しが掛かる事があるのは本当だった。
 実際、夜中にジェットと深夜番組を見ていた時、テレビの映りが悪くなったと、ジェットはハインリヒに電話を掛けて、彼にテレビの調整をさせた事がある。その時彼は、今さっきまで寝ていました。という様子で、眠そうな顔をして、パジャマの上にコートを羽織って下りて来た。それでも、黙って持ってきた道具でテレビの裏を開けて仕事を済ませると、そのまま引き上げていったものだ。その時のジェットの言い分は、『家電の修理はハインリヒの仕事だから。』だったとジョーは記憶している。
 こういうところが、特にこの家の特徴ではないかと思う。別に、テレビの映りが悪いと言ったって、見ていられない程ではなかったし、それを理由に見るのを止めたって良かったのだ。それを、夜中に起こしてまで直させる。朝になれば、彼は一番に起きて来て、多分テレビをつける。そうなれば、彼は黙ってそれを直す事だろうという事は、想像がつく事なのにだ。
 しかも、その次の朝、ハインリヒは普段通りに接してくれて、文句一つ言わなかったし、ジェットが彼の為に何かをしていたとも思えなかった。
「端末は、まだハインリヒの管轄外だから、私を呼んでね。」
「うん。」
「最近、少し様子がわかってきたって言ってたから、その内、どうとでもしてくれると思うけど。」
 起動も面倒だと言う人が、どうして修理はするんだろうと、その辺りの心理状況を不思議に思いながら、ジョーは頷いた。
「でも、使うのはあまり好きじゃないのよね…。」
 フランソワーズがそう呟くのを聞いて、同じ事を考えている事に、ジョーは少し楽しくなった。
 この家にいて、とても居心地がいいと思うのは、時々こうして、他の住人たちと同じ事を感じる場面があるからだとジョーは思っている。育ってきた環境も、年齢も、何もかもが違っているのに、感じる事全部が違うわけではなくて、そんなの当然だと言われてしまえばその通りだけれど、それが嬉しいのだ。時々同じ事を考えて笑える。それがとても楽しくて安心するのだ。
 だから、この家の住人として、彼等の中に入りたいと思う。ここならば、大丈夫じゃないかと思うのだ。それでもまだ、どこかに不安がつきまとうのは、決定的な何かがないからなのではないかと、そんな事を考えていた。



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考える少年。その2。赤ん坊、やはり目覚めず。
 次でちょっと、お話動くかなぁ。という感じ。『砕破』の時とはちょっと違う感覚で見た、住人たち。
 家族って、遠慮なく扱ってると思う。朝5時に、バスないから駅まで送ってくれ。なんて、他人にはとても頼めないが、親になら言える。そういうのが家族だと思ってるのは間違いか?

(2002.8.27)


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