夢幻



 家へ戻ってきた彼は、薄暗い廊下の先の自分の部屋の前に人が立っているらしい事に気付いた。
 それは、仄白く薄闇の中に浮かんでいて、明かりのない廊下でははっきりと誰であるかを確認できなかったが、多分一番可能性の高い人間の名前を、彼は口にした。
「ジェットか?」
 用事が終わったら連絡すると言って、今は夕方の6時。しびれを切らして戻ってきていてもおかしくないと思ったのだ。
 その声に反応したように、その人影は彼に向き直った。
「……?」
 彼の目は、只人の目とは違う。彼にとってこの廊下は薄闇だが、多分、普通の人間ならば、暗闇にしか見えないだろう。その彼の目にも、ぼんやりとしか認識できなかったその人影は、ゆっくりと一歩を踏み出し、二歩目で床を蹴った。
 ふわりとその人影の纏う白いコートが風に靡き、その体は、軽く彼の前に降り立った。
「っ!」
 目の前にあるその姿は、いつか見た事のある自分に似せた人形によく似ていた。
 そう思った瞬間、翻ったコートの下から、体を回転させるようにしてハイキックが繰り出され、彼はその場から一歩引いてそれを避けた。
 すぐそこにある、口の端をあげて笑ったその顔を見て、彼は寸前の認識を取り消した。
 それが似ているのは、あの人形ではなく、自分だと。
 それは一歩引いて体のバランスを崩した彼の隙を見逃さず、床に着いた足をそのまま反動をつけて彼の腹部に向けて振り上げる。
 それを避け切れず体を折り曲げた彼の体は、そのまま振り切られた脚の力で廊下の端まで吹き飛ばされ、壁に当たりその場に崩れ落ちた。
 ただの人間ならばともかく、機械仕掛けの自分の体が、ただの人間に蹴り飛ばされる事などあり得ない事を知っている彼は、必死にそこから起き上がろうと床に手をつき、体を引き起こそうとした。ここで起きあがれなければ、自分の負けは間違いない事がわかっているのだ。体勢を立直して構えなければ、終焉が来るかもしれない。
 身じろぐ彼の耳に、軽い足音がすぐそこで聞こえ、床についた右手に足が乗せられた。
「はじめまして。」
 自分と同じ声が頭の上から降ってくる事に、気味の悪さを感じ、押さえられている右手を引き抜こうとした彼は、それが僅かも適わない事に驚かずにはいられなかった。
 そして、もう片方のつま先が、顎を持ち上げるのに抵抗もできず、自分を押さえているのが先ほどの認識と違わず、己と同じ姿をした人間だという事を確認させられた。
「お会いできて、嬉しく思う。」
 楽しそうに笑ってそう言う声は、言葉の意味とは裏腹に冷たく、優しさの欠片も見つける事ができなかった。自分と同じ顔が浮かべる表情は、とても嬉しく思っているものとは受け取れるものではなく、その言葉が彼の本当の言葉であるのか、判断はつかなかった。
「……ブラックゴースト…か?」
「つまらない事を聞くんだな。」
 小さくため息をついて彼は言い、顎を持ち上げていたつま先を引き抜くと、横へ振り払った。
 頭部を横から殴打される衝撃をまともに喰らった彼の意識は、そこでぷつりと途切れ、彼は床の上に倒れ伏した。
「………初めて会ったら、自己紹介とやらをするのが、人間の流儀じゃないのか?」
 床に膝を着いて、意識を失った彼の体を上向かせ、彼はその顔に触れて笑みを浮かべた。
「この程度で意識を失うのか…。」
 つまらなさそうに彼はそう呟き、彼の製作者が言っていた言葉を思い出した。改造が加えられていないから、この体は弱いのだと。
「きちんと挨拶をしたのに、つまらない事を聞くから悪い。」
 その言葉を彼が聞いていたら、あれが正しい挨拶だとは認めないと主張したに違いないが、彼には意識はなく、反論が返る事はなかった。
「……あれも、弱いかな……」
 もう少し、強くできているかと思ったのに、足を押さえただけで動けなくなった彼が不思議だった。もしかして、手加減でもされたのだろうか、と彼は思い、小さく首を振った。資料で見た彼は、そんなに愚かではなかった。だからきっと、油断したのだ。あのロボットと同じだと思って。
「……俺は、あれとは違うよ。」
 にこりと笑って、彼はそう呟いた。
 
 
 
 
 
 
 ゆっくりと目を開いた彼は、自分を見下ろしているその顔を見て、首を傾げた。
「ジェット?」
 どうして、彼がここにいるのだろうか。と考えて、彼がレースの合間にこの家を訪ねて来た事を思い出した。そして、ゆっくりと記憶を辿って、自分と同じ顔の襲撃者を思い出した。
「大丈夫か?全然呼び出しないから来てみれば、部屋のドアは開いてるし、あんた寝てるし。」
「………大丈夫だ。」
 では、あれがわざわざ自分をこの部屋まで運び込んで、ベッドに寝かせてくれたと言うのだろうか。と、心配そうな顔をするジェットに答えつつ考え、ハインリヒは体を起こした。
「顔、汚れてるよ。」
 ふと気付いてジェットはそう言い、服の袖でハインリヒの右の頬を擦った。彼の体は殆どが機械仕掛けで、その顔も全て作り物だ。人の肌とよく似た質感の人工皮膚が覆ってはいるが、怪我をすることも、痣を作る事もない。ただ、殴られたり蹴られたりした時に、汚れがつく事はある。
「喧嘩でもした?」
 サイボーグの彼が喧嘩をして、彼に勝てる相手がこの街にいるとは思わないけれど。と、ジェットは腹の中で苦笑する。それでも、彼が部屋の鍵も掛けずにベッドにいた時には、何かあったのではないかと慌てたのだ。
 彼は、眠っていると言うよりも、意識を失っているというのが正しい状態で、彼をそんな状態にする事ができるのは、同じサイボーグ仲間か、彼等を狙う組織の手に依るものしか考えられない。
 それなのに、ハインリヒは眠っていたというジェットの言葉を疑わず、問題ない事を主張した。それは、彼が何ごとかを隠しているという事ではないかと、ジェットは思ったが、それをはっきりと尋ねる事を躊躇った。
「まさか。」
 ハインリヒは苦笑して、ベッドから下りて軽く頭を振った。
「今、何時だ?」
「8時。」
「……飯は?」
「まだ。どっか、食いに行く?」
 迷う姿を見てジェットが問いかけると、彼は暫く思案してから頷いた。
「んじゃ、奢るよ。部屋代な。」
「珍しいな。」
 明日は嵐だ。と、ハインリヒは笑い、クローゼットからコートを取り出した。
 
 
 
 

 彼は、目の前に置かれた緑色の果実をジッと見つめていた。
 これを彼に寄越したのは、なかなか恰幅の良い女性だった。その店の主人であるのか、彼女は店先に置かれていたそれを彼に差し出して言った。
『今年の初物だよ。持って行きなよ。去年、よく買ってくれたじゃないか。好きなんだろう?』
 戸惑う彼に、彼女は次々に言葉を繋いで、最後にはその手を取ってそれを持たせてくれた。
 払う金がないから。と答えても、彼女は別に構わないと言って、また次にでも沢山買ってくれと言った。
 彼女が、人違いをしているのは間違いなくて、それは彼の好きなものでもなければ、去年それを食べた記憶なんて全くない。でも、断るに断れずに、持って帰って来てしまった。
 しかも、誰にも渡さず、こうしてもう三日も眺めている。
「……好き……」
 よく買ったから、好き。
 ここでよく食べるものには、こんな物はないし、彼は何かを進んで食べようと思った事がない。だから、その感覚がよくわからない。
 よく買ったから、好き。
 では、よく傍に置いているあれは、好きなものなのだろうか。
 製作者が集めていた彼の資料の中に、やたらと出てくるのが、あれだ。つきまとっているだけかと思いきや、彼はそれが傍にいるのを嫌がっている様子はない。
 あの時も、彼はそれの名前を呼んだ。
 そう、別に、彼に喧嘩を売りに行ったわけじゃないのだ。穏やかに挨拶でもして、少し話でもできたらいいかな。と思っていた。でも、それがなんでだか気に触ったのだ。
 彼は、こちらの事を知らないから、気付いて名前を呼ぶ事はないのはわかっているけれど、よりにもよって、あれと間違えなくてもいいだろう。着ていた服の色だって、まるで違ったのに、どうして間違うと言うのだろう。
 少なくともこちらは、彼がきちんと見えていた。彼だって、見えていたはずだ。だから、間違うはずなんてない。
「………好き……」
 彼の好きな緑の果物。
 ぷつり、と一つを手に取って、口に運ぶ。
「………」
 あまり食べた事のないものだけれど、何となく、彼が好むのもわかるような気がした。
 彼には、好きなものが沢山あるのかもしれないけれど、その気持ちがわからない自分には、好きなものがない。あるのは、彼だけ。なのにどうして、彼の中には自分がないのだろう。
 だから、自分を知らせたかったのだ。
 あんな風にするつもりなんて、少しもなかった。
 でも、何だか少し腹が立った。
 腹が立ったから、あんな事になってしまったけれど、でもそれは、彼が嫌いだとか憎いからだとかそんなじゃない。
 そう。多分、好きだから。もっと傍にいたいと思うから、きっとこれは、好きだという事。




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偽者登場。のっけから暴力的。でも、多分これでお終い。彼の本性は、後半部分の方。
ちょっと賢いジェットさん。ここのジェットが一番賢いかもしれない。
トラック野郎であまりいい生活してないハインリヒさん。でも果物好きです。昔あまり食べられなかったから。
この話、どこへ流れ着くのかな………

(2002.8.30)


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