夢幻



「なんだい、また、そんな暗い色を着て。この間みたいに、明るい色でも着てごらんよ。」
 そう声を掛けて来たのは、度々世話になっている果実を商う店の店主だった。
「明るい色?」
 自分が持っている服と言えば、黒だとかグレーだとかで、確かに彼女の言う通り、暗い色ばかりかもしれないと、ハインリヒは思った。だが、だからこそ、自分が明るい色の服など着ているわけがないのだ。
「この間、葡萄をあげた時だよ。白いコート着てさ。薄いグリーンのシャツを着てなかったかい?」
「…俺、そんな色のは持ってないけど…」
 そもそも、葡萄を貰った記憶もない。そう思ってから、白いコートに心当たりを一つ見つけた。
 自分と同じ顔をした彼は、自分が着ない白いコートを着ていた。翻ったそれの下に、彼女の言うような色を着ていたかどうか記憶はないが、白い服を着た自分だと彼女が言うのならば、それ以外には誰もいないだろうと、ハインリヒは小さくため息をついた。
 葡萄はとても好きだ。と言うよりも、果物は全般的に好きだ。子供の頃は戦争が始まって品薄になり、それが終わってからも、東側には果物の量が少なかった。他の物は足りないと思う事はなかったものの、都市であるベルリンに住んでいたせいで、供給は農村地帯とくらべれば、少々後回しにされていたようだった。
 だから、西ベルリンに出かけて行って買ってくる物は、殆どが果物だった程で、隣の住人には度々笑われた。そう言いつつも、彼等もお裾分けに買って来た物を持って行けば、お礼だと言って食事をごちそうしてくれたりしたものだったが。
 そんな経緯もあって、ハインリヒは帰って来た東ベルリンに、新鮮な果物が売られているのには感動したものだ。日本にいた時も、店に所狭しと並ぶ様々な果実の山を見て、驚いたものだが、それもやはり笑われた。どうやら、似合わないそうだ。
 そんな中でも、特に気に入っていた品を、自分を蹴り飛ばしていった者に持って行かれたなんて、悔やんでも悔やみきれない。
「………じゃぁ……」
 ドッペルゲンガー、と彼女が言いたかったのはすぐに知れた。見たら死ぬと言われている、自分そっくりの影だと言う。
 ある意味、それは正しい意見だろう。絶対に死ぬかどうかは置いておいても、攻撃はされたわけだから、危なかったのは確かだ。
 ではあるけれど、彼は自分を部屋まで運んでくれた上に、親切にベッドにあげてくれもした。その辺りの行動の一貫性の無さに、なんともおかしな気分にさせられて、結局、ジェットにも黙っている事になってしまったし、当然、他の仲間たちにも連絡はしない状況を引き起こしていた。
「日本じゃ、自分に似た人間は3人いるって言うんだそうだよ。きっと、その一人さ。」
 ごまかしになるかならぬかの話題を持ち出せば、彼女は暫く強張っていた顔をほころばせ、店先の赤い果実を手に取った。
「それじゃ、これを持って行きな。」
「なんだ。同じのくれるんじゃないのか?」
 店の奥の方にそれがあるのは見えていて、買おうと思って歩いて来たのだけれど、くれるものがあるならば、あれはまた次の機会にしようと、彼女の差し出した真っ赤なリンゴを受け取った。
「お得意さんは大事にしたいが、私も商売人だからね。」
 笑って言う彼女に苦笑とため息を漏らせば、彼女は思い出したように笑った。
「あんた、じいさんにそっくりだから、似た人間はあと一人だね。」
「見つけたら、知らせて。見に行くから。」
 笑って返して、足をアパートへ向ける。彼女の言う『じいさん』が、祖父ではなく当人であると言うのは、彼女には絶対に言えない事だ。
 もといた国へ帰れば、知り合いもいるだろうとは思い、住む街は変えようと思ったものの、結局同じ街、同じ建物に帰って来ているのが、彼の現状だ。そしてそれは必然的に、以前の彼を知る人々のいる場所でもあると言う事だ。高々40年。人が全て入れ替わるには短い時間だ。
 彼女も、彼がこの街にいた頃は、まだ小さな子供だった。覚えているとは思わなかったが、彼女ははっきりと彼の名前を呼んだ。そして、何も言えないでいるハインリヒに、彼の孫だろうと言って、昔を語ってくれた。
 訂正もできないまま、今ここにいるハインリヒは、以前ここにいた、アルベルト・ハインリヒの孫の、アルベルト・ハインリヒになってしまった。おかげで、その頃の持ち物が手元に返って来たという有り難い事もあったが、彼にとっては、なんとも複雑な、不思議な状況になっていた。
 彼等が語る嘗ての自分は、自分の思っていた自分とはまた違い、人から見た自分と自分の思う自分は違うのだと、しみじみ感じる事にもなったのは、ここへ帰って来たからこその事だった。
 
 
 
 
 
 
 
「………」
 玄関チャイムの音にドアを開けると、同じ顔がそこにいた。
 先日と同じ、白の丈の長いコートを着た彼は、薄い青のマフラーを巻いて立っていた。
「……これ。」
 ずいっ。と差し出された袋を反射的に受け取って、中を覗き込めば、そこには貰い損ねた緑の葡萄が入っていた。
「返したからな。」
 自分と同じ声なのだろうと思われる、どこか少し違う声がぶっきらぼうにそう言って、用は済んだとばかりに背中を向けた。
「あがって行かないか。」
 思わずそう言ってから、何を呑気な事を言っているのかと、自分でも驚いた。
 だが、もっと驚いたのは、その言葉に従って、彼が振り返ったことだった。
「……」
「……こんなに貰っても、悪くするから。」
 商売人である彼女が、目の前で困ったような顔をしている彼に、葡萄を抱える程差し出したとは思わない。それなのに、渡された袋には、多分房が4つは入っているだろうと予測がついた。と言う事は、彼はこれを持ち帰ってしまった事を申し訳なく思っているか、店で彼女に何やら言われて売り付けられたかのどちらかだろう。そういう相手を、無下に扱うのは、どうにも落ち着かない事のように思えたのだ。
「いいのか?」
「…………どうぞ。」
 つい先日からすると、どことなく人らしい話し方をするように思えて、ハインリヒは立ち塞がっていた玄関から一歩退いて、彼を部屋の中へ迎え入れた。
「……名前とか、あるのか?」
 ドアをくぐった彼が、物珍しそうに家の中を眺めている後ろ姿を見て、話題を探すように問いかけると、彼はくるりと振り返って、躊躇いがちに口を開いた。
「……ノイ。」
 申し訳無さそうに返った答えの意味を考えて、思わず笑い、自分を指差して問いかける。
「アルト?」
 彼は、その言葉に驚いたようにこちらを見て、それから小さく頷いた。
「番号よりは、まだマシか。」
「……すまない…」
「お前が気にする事じゃないだろう。」
 名前を付けるのは自分ではないのだから、彼が謝ったところでどうしようもない事だ。それに、その名前では、番号を振られて物扱いされていた自分達と、あまり変わりがあるとは思えない。
 確かに、先日は蹴り飛ばされたせいで、ブラックゴーストの刺客かとも思ったが、今いる彼を見ていると、どうにもその様子は伺えなかった。
「アルト、それは、なんて言う物?」
 問いかけられて苦笑が浮かぶ。自分で言ったからには今更嫌がるわけでもないが、そう呼び掛けられると、少々複雑な気分になるものだった。
「マスカット。」
 それでも訂正する事なく質問に答える。他の誰かに呼ばれたら腹も立つだろうが、何故だか、彼ならばいいかと思った。
 そして、彼は、そんな事も知らないでここにいるのだという事が、ほんの少しだけ、不憫だと思った。
「ノイは、ブラックゴーストから来たのか?」
「………まぁ。そんな所。」
 一応、その辺の事は確認しておくべきだろうと、問いかければ、彼は少し戸惑ってそう答えた。きっちりとその組織に入っているわけではなく、元ブラックゴーストの人間の作ったものか、組織内にいるにはいるが、上から指令が来ているわけではないという事か、そのどちらかなのだろうとあたりを付けて、問いを重ねる。
「ロボット?」
「サイボーグ。……アルトのクローンなんだって。」
 自分よりも、子供のような言葉を使う彼は、それでも自分と違って、綺麗な標準ドイツ語を操っていた。うっかりすると、どうしてもベルリンなまりの出る自分とは違うのだな。と、そんな所でおかしく思って、ハインリヒは貰った袋を壁際のテーブルに下ろした。
 ロボットだと言われれば、以前に戦わされた自分と同じ形の物の改良型だろうと納得する事もできたが、クローンから作られたサイボーグだと言われると、何がその製作の狙いで、どうしてその彼がここに来て自分と穏やかに話などしているのだろうかと、その辺りの疑問が残った。
「別に、アルトと戦おうと思って来てるわけじゃないから。」
「……そうか。」
 椅子に座ってノイはそう言い、窓の張り出しに置かれたサボテンの鉢植えに目をやった。
「これは、花が咲くの?」
「咲くらしいな。」
 さっぱりその様子はないのだが、とりあえず、時々水をやって、陽のあたる所に置いている。咲いたら呼べと言った人間は、呼ばなくてもやって来るが、その度にそれを確認して頷いているのを、彼は知っていた。
「………ふぅん……」
 面白くなさそうにそう言ったノイの表情を見て、ハインリヒは内心で首を傾げつつ、それを問いかける事をしなかった。




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懺悔一つ。マスカットの売り始めは、「夏」のようです。コート着る時期に、初物は出回りません。ハッと気付いて食品成分表を見たら、そうなってました。ドイツではどうだか知らんが、多分、さ程変わらないかと思う……。ついでに言うと、ドイツにマスカットがあるかどうかも知らないです。
ちなみに林檎は秋冬出回りの食べ物と確認。
偽者名前発表。ノイ。あんまりっちゃあ、あんまりなネーミングでございます。けど、随分気に入ってます。
ハインリヒを『アルト』と呼ぶ彼。製作者がそう呼んでいたわけではなく、自分が『ノイ』だから、ハインリヒは『アルト』なのです。

(2002.9.3)


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