「アルト、これ貰ったからあげる。」
ふらりと家を訪れるようになった彼は、そう言って赤い林檎を差し出した。
今日の彼は、濃い茶色のコートに、黒のマフラーを首に掛けていた。来る度に彼の着ている服は彩りを変えて、どこでそれを手に入れるのだろうかと不思議に思う程、統一性がない。
「ああ。ありがとう。」
それを受け取れば、彼は家へ入り、慣れた様子で玄関脇のコート掛けにコートとマフラーを掛けた。
「お前、その服どうしてるんだ?」
コートの下の寒々しい白いワイシャツは、冬の外出には到底向かない。温度調節のいらないサイボーグだからこそ可能な服装だと、そんな事をハインリヒは思った。
思い出せば、彼等がブラックゴーストにいた頃は、ノイが今着ている、支給された味気ないシャツとスラックスを着て普段を過ごし、訓練の時だけ、防護服に着替えていた。外へ出る事のない彼等には、彼が着ていたようなコートなどは支給されていなかった。
「これ?……貰った。」
穏便に事が運んだとも言い切れないけれど、タダで差し出されたものは、貰ったものだろう。と自分を擁護して、ノイはそう答えた。
「誰に。」
「警備員。」
彼等は私物を沢山持っていて、仕事の性質上、非番というものが設けられているらしい。その時に、彼等は街へ出ていって、色々なものを買ってくる。それを、ちょっと横からかすめ取っているだけの事だ。
「……そうか。」
思い当たる何かがあるのか、と思う程度に間を開けて、ハインリヒは軽く頷いてキッチンに立ち林檎を眺める。
「ノイ。このまま食べるか、煮るか、どっちがいい?」
「タルトタタンがいい。この間食べたの、林檎でできるんだろ?」
問いかけると、彼は困ったような顔をして、それから首を振った。
「生憎、それは作った事がない。」
「………じゃぁ、そのままでいい。」
残念そうに林檎を眺める様子を見て、ハインリヒは苦笑を浮かべた。
自分と同じ姿をしたものが、自分とは違う行動をとる。声はやはり少し違って聞こえるし、口調も違うから、ノイが自分だとは思わないけれど、なんだか奇妙な気分だった。世の中の双児というのは、こういった感覚の中で暮らしているのだろうか、とそんな事を考える。
「そう言えば、さっきそれ貰った時に、『あんた達のじいさんには世話になったからね』って言われたんだけど、じいさんってどんな人?」
林檎の皮を剥きながら、ハインリヒはノイを振り返ってナイフの先で自分とノイを示す。
「あんたたちの、じいさん。」
最後にもう一度自分を示したその動きで、ノイはそれが彼の事だと理解して首を傾げた。
「それって、時間がおかしくない?」
ハインリヒがここを出ていったのは、彼が30歳の頃。そして、ここへ帰って来たのは40年程経ってからだ。当時彼には子供がいなかったのだから、幾ら何でも、それで現在30の彼が孫として存在しているのは無茶な話だ。
「子供に自分と同じ名前はつけないだろう。厳密に考えりゃ、おかしな話だが、そんなの深く考える人間もいねぇよ。」
「……そっか…。で、アルトはあの人知ってるの?」
年齢を推測するに、彼がここにいた頃の彼女は、多分7つか8つといったところだろう。さすがにその頃と比べて同じ人間だと判断するのは難しいような気がすると、ノイは思った。
「知ってる。あの子、お母さんそっくりに育ったもんだと思って、おかしかった。」
どう見ても、彼と彼女を比べて、彼が『あの子』と呼べるような年齢には見えないのだが、彼にとってみれば、まだ小さかった頃の彼女の記憶の方が強いのだろう。懐かしそうな顔でハインリヒはそう言った。
「あの人のお母さんは、アルトと同じくらいの歳?」
「ああ。同じだよ。一緒の学校通ってた。」
それでは、彼女らはただの人間だった頃の彼を知っているのだ。と思うと、それを聞いてみたいという衝動が、ノイの中に浮かんできた。
ノイには、これと言う記憶がない。もちろん、サイボーグに改造される前に覚えた事や、改造されてから学んだ事もある。それでも、記憶の中にあるのは、彼が作られた建物の中と、彼を作った科学者だけと言っても間違いではない程だ。外で買い物をした記憶もなければ、近所の誰かと立ち話をした記憶もない。だから、ここで起こる事や、新しい住処での生活は、彼にとって全てが新鮮であるのは確かだ。
「その人に聞いたら、アルトの子供の頃の話してくれるかな。」
「………してくれるとは思うが、何か知りたいのか?」
どうしてノイが自分に興味を持って傍へ来るのか、未だに理解し切れていないハインリヒは、楽しそうに呟くノイを見て、戸惑いつつ問い掛けた。
ノイが、自分に敵意を持っていない事は、ハインリヒもわかっている。ただ、時折、酷く冷たい印象を受ける時もあり、ノイの性格が掴み切れないのも確かだった。彼には、突然様子が変わってしまいそうな、そんな不安定なものを感じるのだ。
「アルトがどんな子供だったのか、気になる。俺は、子供の頃の記憶がないから。」
「どうして?」
「あいつは、記憶を消したんだって言ってた。」
ノイの記憶は、サイボーグ手術をされる2年前から突然始まる。ただ、普段の生活をする為の記憶がある事を考えれば、自分が普通に育って来たのであろうと言う事も、何となく想像がついた。家の中に放り置かれていた品々を見ても、自分が使っていたのではないだろうかと思うような、子供の玩具があったり、小さな自分の写真が出て来た事もあった。その時は、自分の物ではなくて、彼の物なのではないかと思っていたが、わざわざ、彼の子供の頃の写真を手に入れてくるような事は、考えられない。
「どうして。」
「邪魔だからって。……あっても、きっと大した事じゃないと思うけどさ。」
ノイはそう言って、差し出された林檎を手に取った。
「改造されて、初めて戦闘訓練した時にさ、俺、戦えなかったんだよね……。」
コーヒーの入ったマグカップを両手で持って、そこに映る自分を眺めるようにしながら、ノイが言った言葉を聞いて、ハインリヒは外へ向けていた視線をそちらへ戻した。
「その時に、アルトはそんなじゃなかったって言われた。アルトにできて、どうしてお前にはできないって、責められて、それが腹が立って、相手があいつだと思ったら、できるようになったんだけど……。」
ノイはそこまで言って、視線をあげて真直ぐにハインリヒを見据えた。
「どうして、アルトは、戦えたの?」
初めての戦闘訓練は、どこかの軍の施設で行われたと記憶している。ブラックゴーストにはいなかったし、個人が軍隊を持っているとも思えないから、彼の製作者は、どこかの国の軍と結びついていたのではないかと思う。ブラックゴーストが、武器商人だと思えば、それはさほど不思議な事ではないだろう。
その時、彼の前にいたのは、人の乗った戦車だった。
人が乗っているというその一事だけで、ノイは戦いを選べなかった。戦うという事が、彼等の命を奪う事だと、わかっていたからだ。
製作者は、無駄な感情はいらないと言いながら、ノイから人が死ぬという事実を抜き取らなかった。人を殺すという行為が、通常忌み嫌われるものだという事も、ノイの中には知識として存在していたのだ。
だから、戦えなかった。自分が兵器である自覚などなかったから、戦う理由も見えなかったのだ。
「……俺は、そういうのは、ずっと昔に終わらせたから。」
戦う事を選ぶ理由がなかったノイが、突然戦えと言われて戸惑う気持ちはわからないけれど、目の前に殺せと言われたものがあって、それを選べない気持ちはわかる。戦う事を自分で選びながら、それができない事だってあるのに、選んだわけでもない人間が、簡単にできるとは思えない。
「どういう事?」
「……俺が子供の頃、この国は、戦争をしてた。」
生まれた頃から、この国は戦争に向かって着々と準備をしていたのだと、ずっと後になってから読んだ本に書かれていた。その頃は、それが当然あるべき生活だと思っていたから、そうでない場所があるなんて事は、考えた事もなかった。
食料統制とか、代用食品とか、世の中は全部そうしたものだと思っていたから、そうでない頃を知っている祖母の言う事は今一つ理解できなかったし、仕事がないと嘆いていた父が、失業者を無くしてみせると叫んだ人間を支持した事も、悪い事だとは思わなかった。
子供だったから、世の中の動きよりも、隣近所の友達との付き合いの方が重要だったからだ。それに、その頃の生活が、祖母が言う程酷いものだとも思っていなかったから。
「俺が初めて戦場に行ったのは、12の時。でも、戦場なんて言っても、それは、街のすぐそこの川岸だったり、村の広場だったりで、軍の基地に行った事があるのは、一度だけだった。」
今この国で、戦場はどこか遠い国の、荒れた大地の上にあるものと捉えている人の方が多いだろう。でも、ほんの50年遡れば、この街は戦場だったのだ。空から爆弾が落とされ、地上を戦車が走る戦場だ。
「簡単な軍事教練を初めて受けたのは、9歳の時。その前から、その為の準備は続いていたけれど、武器の扱い方を教えられたのはその時だった。」
この国を戦争に導いた人物は、子供にも戦う術を教え、そして実際に戦場に駆り出した。そして、それに抵抗する気など、彼には欠片もなかった。それどころか、進んでそこへ足を運んだのだ。
「祖母も母も、反対したけれど、俺はそれが正しい事だと思ってた。」
歳をごまかして、できるだけ早くそれに参加しようとしたのは、自分だけではなかった。気付いたら傍にいた、という幼馴染みの友人と共に、宣誓をした。
「でも、初めて武器を持って、目の前に敵の戦車があって、それを撃てと言われても、どうしてもできなかった。それが、何を引き起こすのか、おれたちは何度もその光景を見ていたから。それを見て、自分の無力さを嘆いていた自分が、同じ事をするのだと思ったら、恐くて仕方がなかった。」
何もできずにその攻防がおさまった後、同じ部隊にいたさ程歳の変わらない少年兵たちは、肩を叩いてくれたけれど、部隊長は、言った。
「ここで俺たちが殺されてしまえば、彼等は俺たちの後ろにいる人々も、殺すだろう。彼等を守れるのは、ここにいる我々だけなのだ。って、やけに芝居がかった事を言ってくれたけど、その時の俺たちにとって、それは自分がそこにいる理由を思い出させてくれるのには充分だった。」
守りたい人があって、ここにいるのだから、その為には、武器を取って自分が戦わなければいけない。守りたいものがあって、それを壊そうとする人間がいるのならば、それを止める為に、その命を奪う事も躊躇ってはいけないのだと、それが、今自分が立っている場所には必要な事なのだと、理解した。
「……あの時も、同じだった。……そこに、守ろうと思った者がいて、それを傷つけようとする者がいる。そしてそこは戦場で、自分には武器がある。迷う理由なんて、どこにもなかった。」
初めて戦車を潰した日に、迷いは吹っ切ってしまったから、あの日迷う必要はなかったのだ。ただ、それだけの事。
「今更、血塗れになる事を恐れる程、俺は綺麗な手をしていなかったから。」
他の誰もが戸惑っていた状況は、自分にとってそれほど特別な状況ではなかった。もちろん、その頃には遠くなってしまっていた世界ではあったけれど、思い出して引きずり出してくる事は簡単だった。
あの場所へ連れてこられた時に、もしかしたら人を殺したかもしれないと悔やんでいた彼とは違って、自分にとって、人を殺すと言う事は、何かを争って起きる事ではなくて、戦争の中で起きる事だと思っていた事は、もしかしたら、ましな事だったのかもしれないけれど、でも、彼と違って、自分の手は既に、血塗れだった。
何故だか、ハインリヒの過去話へ方向がずれつつあるこのお話。おかしいな〜と、思ってはいる。
当方のハインリヒさん、1962年に壁越え、1932年生まれの設定です。アニメの現在が2002年と想定しないと、ベルリンの壁の建設1961年8月は無理だし、それほど未来とも思えない…けど、未来都市は今ねぇだろ…とか言うのは無しで………。40年前に壁越えできるって事は、現在は2001年から2029年の間って事だよね…。
で、32年生まれって事で、当然この人戦争に行ってます。農村の子供でもなく、大ベルリンに暮らしてた子供が、疎開もしてなけりゃ、ユーゲントに入ってないって事はあるまい。ユーゲントに入ってれば、10で軍事教練、1、2年で戦場送り。ってのは、あり得る話だ。
しかし、アニメのこの人、じゃがいもの花見た事ないって言ってたから、農村のお手伝い班には回されなかったのだね…。ヒトラーユーゲントの本を読みながら、彼はどこに配属されてたらいい感じかな〜と、考えていた。海洋ユーゲントとかどうかしら。海図が読めるようになってるだろうから、お役立ち能力だと思うけど。(2002.9.23)