想い



更に打つべき手はないものかと、行商で方々を歩きながら考えて、ふと一人の顔を思い出した。
 伊庭八郎。吉原で知り合った彼は、歳三よりも九つ年下。心形刀流の先代当主の息子。何れはその役を継ぐのではないかと噂されている。何をどう見たのかは知れないが、何故か歳三を気に入ってくれているようで、身分の事など気にせずに声を掛けて来る。
 伊庭道場への薬の行商も慣れたもので、歳三が顔を出せばそのまま八郎が出て来る程だ。そうして、薬も売らずに二人で出掛ける。歓迎はされていないだろうが、表立って拒否される事もなかった。
「お前だって、武士だけど。」
 お前は色々ちゃんと心得ているから。そう言ってやれば、伊庭は困ったような顔で笑った。
「おいらは、歳さんといるのは楽しいけれど、それで総さんに恨まれるのは、嬉しくはないよ?」
「大丈夫だ。俺が勝手にお前に入れあげてるって事にしたらいいんだから。」
 俺が総司を避けるようになったのは、伊庭に惚れたからだと思わせれば、総司は俺に呆れて気持ちも遠のくと言うものだ。そういうところで総司は潔癖だから、期待できると思う。
「お前は、迷惑だって顔をしてたらいいんだ。」
 試衛館に行ってぼやいてもいいぞ。と言えば、伊庭は大きくため息をついた。
「おいらは別に、歳さんと総さんが一緒にいちゃならないとは思わないがねぇ。」
 伊庭にしてみれば、そんな事はとうにわかっていた事として、二人が念を交わしたのだと思っていたところに、この仕打ちである。別段、歳三にそう言った好意を抱いているわけではないが、これはどうだろうとも思う。
「そりゃ、今はいいかもしれねぇよ。けれど、俺は穀潰しでさ、何やったって続かねぇ人間だ。あと何年かすりゃ、総司だってそういう事がわかってくるだろうよ。けれど、それじゃ遅いかもしれねぇだろ。」
 総司はいずれは試衛館を継ぐかもしれない。そうでなくても、どこかの藩へ雇われるかもしれない。剣を磨いて、身を立てようという男に、自分は邪魔に違いない。
「……まぁ、付き合ってあげるけれどねぇ…」
 ため息混じりに伊庭は呟き、嬉しそうな歳三に呆れた目を向けた。




「歳さんが、伊庭のところに入り浸ってるって?」
 きょとん、とした顔で総司はその噂話を聞いた。
「このところ、急に増えてね…」
 困ったものさね。とため息をもらす伊庭を見て、総司は戸惑わずにはいられなかった。
 最近頓に顔を見せなくなったと思ったら、伊庭のところには顔を見せているなんて。あの人は一体何を考えているのだろう。
 まさか、心形刀流に入門しようなどと考えているわけではあるまいけれど、その狙いがまるでわからない。
「おいらも、歳さんの事は好きだけれど、友としての事だからね。」
 そう伊庭が言えば、総司は驚きに目を見開いた。
「……そういう意味で?」
 歳さんは、俺のいい人のはずなのに。そう思って、やっと事態が飲み込めた。
 あの人は、とうに自分から興味をなくして、新しい男を探しているのだ。だから、ここへは来ない。
「どうやらね。」
 伊庭は本当にそんな事に興味はないらしく、呆れた顔で頷いた。
 そんな様子も様になる伊庭を見れば、自分がどんなにか見劣りするかはわかる総司である。それでも、歳三がそんな事で自分を選んだとは思っていなかったのだ。
「…………そうなんだ…」
 不意に江戸へやって来なくなってから、何か気兼ねしているのではないかと思っていた。
 歳三は総司が来てくれと頼めば、必ずやって来てくれたから、もしかして、身分の事でも気にしているのかと思っていたのだけれど、伊庭となれば、総司などは太刀打ちできない、武家中の武家である。
 もしかしてあの人は、武士という身分を持った人間に憧れているのだろうか。そう考えれば、この事は簡単に説明がつくように見えた。
 けれど、歳三がそんな人間ではない事は、総司はよくわかっていた。
「総さん?」
「…俺ねぇ、歳さんに、自分から好きだって言ってないんだよね。」
 苦笑を浮かべる総司に、伊庭は驚いてその顔を見返した。先日の歳三の言い分に呆れたものの、それを聞かされれば、あの戸惑いの理由もわかるような気がした。
 歳三は、総司に好かれている絶対の自信がないのだ。だから、何かに気付くと、自分が身を退かねばと考える。自分だけが相手を好いていて、無理を強いていると思っているからだ。
「ずっと好きだったんだよ。多分、初めて会った時からね。でも、なかなか言い出せなくって、その内に、歳さんが好きだって言ってくれた。」
 嬉しくってさ。そう言って笑ってから、総司は俯く。
「歳さんはああいう性格だからさ、俺からの言葉なんて求めたりしなくて、俺はすっかり言う機会をなくしちゃってさ。」
 歳さんは優しいから、俺の事ばっかり考えてくれるの。
 そう言う総司の言葉を聞けば、先日の歳三の言葉が、本当に相手への好意から出ている事が知れて、伊庭は驚かずにはいられなかった。
 喧嘩っ早くて、口が悪くて、顔に少しも似合わないと思っていた彼の人も、そんな優しい一面を持っていたとは。そして、あの屈託の本当の意味もわかってしまった。
「ちゃんと、言わなくちゃいけなかったんだよね。」
「……歳さんは、おいらが好きだ、ってわけでもないようにも見えるけれどね。」
 身分の事を一番気にしているのは歳三だろう。言い分の通り、歳三は百姓でしかなく、殆どは脱藩浪人だが、試衛館に集う者たちとの身分の差は明らかだ。
「歳さんは、身分の事が凄く気になってるんだ。俺はそんな事考えた事もなかったけれど、歳さんから見ればそうもいかないんだろうし。」
 歳三の中から決して消えない引け目を、自分が上手く取り除いてはやれない事。好かれている事に喜んで、歳三を安心させてやってもいなかったのは、自分の落ち度なのだと思う。
 歳三が自分を子供のように扱うからといって、それに甘えているばかりだった自分が間違っていた。本当は子供のように扱われるのではなく、頼れる者として見てほしかったし、頼ってほしかった。そう思っているのなら、そう行動しなくてはいけなかったのだ。
「どうするんだい?」
 年上であるはずなのに、自分と比べてなんと幼い顔をする男だろうと思っていたはずの総司の思い定めたその顔に、伊庭は少し彼の在り方を見直さねばなるまいと思った。
「俺は、離さないよ。」
 あの人が、何を気にして、何に悲しんで、何に苦しんでも、離してやるなんてできない。
「今度は、俺が押して手に入れればいいって事だろ。」
 にっと笑って、総司は立ち上がる。
 近藤は外出をしている。その上で、総司まで道場を空ける事はあってはならない事だけれど、今はそれを躊躇っている時ではないと総司は思う。そうでもしなければ、歳三は総司の本気など認めてはくれないだろう。そう思えばこそ、今動かずにいる事は、その手を離す事になってしまうはずだ。
「ちょっと、日野へ行ってくる。」
 おいらを巻き込んだのは、失敗だったようだねと、日野に帰ったなんて言うなよと言い置いていった人に語りかけて、口元に笑みが浮かぶ。
「上手くおやりよ。」
「頑張るよ。あの人、頑固だから。」
 もしかしたら、総司は自分を子供扱いする歳三に合わせるように、幼い顔で笑っていたのかもしれないと思う程、その表情はキリリと引き締まって見えた事に、伊庭は何やら楽しくなってしまう自分に驚いた。
 次に会う時、二人がどんな顔をしているのか、考えるだけでおかしくなる。
「良い報告を伝えとくれ。」
 走り出す総司の背中にそう投げて、伊庭は濡れ縁から立ち上がった。




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