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偏愛の才能

(6/30 1996 〜 2/3 1997)

心の琴線に触れた作品たち
あまりジャンルにはこだわらず……。

ヨコハマ買い出し紀行(comic/芦奈野ひとし/1995-)

 例えばそれは、電柱に巻きついた蔓草だったり、或いはひび割れた白いコンクリートだったりする。
 またそれは、今にも泣き出しそうな空だったり、微かな潮の香りを運んでくる南風だったりもする。

  お祭りのようだった世の中がゆっくりと落ち着いてきたあの頃。
  のちに夕凪の時代と呼ばれるてろてろの時間、ご案内。
  夜の前に、あったかいコンクリートにすわって。

 いつかの近い未来の話。でも、どこかおさない頃の夏の記憶を呼び覚ますような景色。

 不意に胸が痛くなる。

テレヴィジョン・シティ(novel/長野まゆみ/1992)

 Sorry,NOW PRINTIG

SHOWCASE(CD/KRYZER&KOMPANY/1994)

 1994年に出た6枚目のアルバム。
 KRYZER&KOMPANYは前から何となく気になっていたのだけどなぜか縁がなかった。
 うん、良い。
 全曲インストゥルメンタル、これがやたらに格好いい。
 特に気に入ったのがトラック1「ルネサンス」。
 他のアルバムも買ってみよう。そうしよう。

ベルセルク(comic/三浦建太郎/1989-)

 ベルセに関しては青年篇終了後に想いの丈をぶつけようと思ってたのだけど、やはり堪えきれずに書いてしまう(笑)。『先読みベルセルク』の始まり〜☆。

韃靼疾風録(novel/司馬遼太郎/1987)

 韃靼が一発変換できないのはしょうがないのかなぁ>MacVJE-Delta

 九州平戸島、かつて和冦の本拠として知られたこの島に異民族の少女が漂着する。少女は明とも高麗ともつかぬ風体をしており、ただ韃靼という聞き慣れぬ名をのみ告げた。
 かくてこの少女を故国まで送るべく一人の武士が少女とともに海を越えて大陸へと渡る。果たして歴史の流転の中に木の葉のごとく揺れる二人の運命や如何……とこう書くとファンタジーみたいだ(笑)

 うーん、いいんだよなあ。上下巻一気読みしてしまった。
 「亜細亜」への憧憬の両面……騎馬民族と海洋民族とが堪能できるたいへんお得な作品です。勿論その中で司馬作品らしく歴史が語られ民族が語られ個人が語られる。それがぞくぞくする程に格好いい。
 以下は余談。
 司馬作品とか塩野七生作品とかを読んだ後に世界史用語集(山川出版社)を読んで余韻に浸るのが或種の癖です。
 元々は高校のときに学校関係で買わされたものだけど簡潔でクールな記述が堪らないのです。

鉄コン筋クリート(comic/松本大洋/1994)

“ソコカラナニガミエル?”

 松本大洋という作家は前衛とエンターティメントを両立させている(しかもビッグコミックスピリッツというメジャー中のメジャー誌で!)凄い作家だと思う。その松本大洋の出世作。“新世紀痛快悪童漫画”とカヴァーには謳われているけれど、第21話のタイトル“鼓動・調和・迷走・残像・友情・回帰”が内容を最も示していると思う。計算しつくされたキッチュな舞台装置の中で張り詰みたままに一気に語りあげられる物語は至って正統な(時に、正統すぎるほどの)児童文学なのだ。
 ラストがいいんだよなあ。
 “世界”はなにも変わることなく、けれど“事件”に関わったひとびとは少しづつ成長し、未来が主人公の前に広がっている。
 俺がエヴァンゲリオンに求めてたのはこうゆうラストなのだとぼんやり思う。

ウォーロック(magazine/1986-1992)

 かつて、ウォーロックという月刊誌が在った。
 ……と、書き出したもののどう続けて良いか思案にあぐねている。実際、この雑誌についてはどうも冷静に語れそうにない。
 その雑誌は、当時日本に根づきつつあったストーリーゲーム……テーブルトークRPGやゲームブック、そしてコンピューターRPGと言ったものもひっくるめて……それらがいかに自由なものであるか、創造的なものであるかを人に紹介していった。ただ、ウォーロックが特殊だったのはあくまでそれらをストーリーの側から紹介していった事だ、とわたしは思う。ゲームの中に自己完結するのでは無く物語を紡ぎ出す装置としてそこにたまたまゲームが在る。そういう思想が貫かれていたからこそ、「ふたつの川の物語」という前を虚しくして後ろを絶するような金字塔を打ち立てる事が出来たのだ。
 それは、一般的にいえばプレイ・バイ・メールと呼ばれるものだった。ただ、そこには勝者も、敗者も、いや、そもそも統一された世界観さえ存在しない。「プレーヤーの想像力により世界が或時忽然と創造される」というストーリーゲームの最大のダイナミズムを雑誌という媒体の中でこれ以上ないほどに純粋に抽出したものだった。
 おそらくは、数知れぬプレイヤーと優秀なマスターたちによって成立したひとときの奇跡のようなものだったのだろう。 しかし、その奇跡は(少なくとも)わたしの中に小さな種子を残し、その種子はやがて育ち小さな小さな花を咲かせた。そのことだけは紛れもない事実なのだ。

空耳の丘(CD/遊佐未森/1989)

 一色の高校時代はある意味遊佐未森とともにあったんだなあとぼんやり思うことがある(笑うなって)。きっと今の一色のビジュアル的な部分の素地を形成したのはちょうど同じ頃に体験した遊佐未森と草なぎ琢仁なのだ。
 で、今回は遊佐未森の話(草なぎ琢仁老師についてはまた今度……)。
 やはり、と言うか何というか。歌詞の中の一人称が「僕」であった時代……というか、まだソラミミ楽団長だった頃……というか、そのころの楽曲が好き。切なさを秘めながら一気にふわっと持ち上がるカタルシスがたまらないのだ。
 だから、なのか遊佐未森の中で最も好きなアルバムを挙げよ、と言われればこの「空耳の丘」になる。
 こと「完成度」に関してはこの次の「ハルモニオデオン」がずば抜けてるんだけど、一色にとってはなんとなく「空耳の丘」の方がいとおしく感じてしまう。
 特に2〜4トラック、つまり「窓を開けた時」「風の吹く丘」「旅人」の盛り上がりといったら!

 ふとした発言にも印象深いものが多いよね。

「自分の感性を信じていないと自分の中に真実を創り出せない」
「うず巻きとかネジネジした線とか、くせもの的なものが好きなんですよね」

日記の虚実(criticism/紀田順一郎/1994)

 購入したその日に一気読みしてしまったんだけどこれが滅法面白い。
 野上弥生子、武久夢二、永井荷風、古川ロッパらの日記に寄り添うようにして読みどころを紹介し、そしてそも「人は何故日記を付けるのか」という命題を解こうとしているのだけど、最近日記に関してはどうもひと事ではない(笑)から共感できる部分もあったりして。

大日本天狗党絵詞(comic/黒田硫黄/1994-1996)

「あなた誰なの?」
「誰でしょ
 なんてこたえればいいの
 じゃあ
 あなたは誰?」
 (水際のこと)

 これはちょっと凄いよ。
 日本に今も生息する天狗達の蠢動を描いたコミックなんだけど、筆で描かれた粘つくような闇の表現が物凄い。押井守を思わせる生活観の描写やら映画的なシークエンスやらが格好いいのよ。
 ストーリー的にも変調革命文学と言った感じで今こんな話が読めるとは思わなかった。 街の中に思いも寄らない露地を見つけたような感じ。
 しかし最近読んでる漫画がどうもモーニング・アフタヌーン系に偏向してるような……ま、いいけどね。

【補足】
 今回出た4巻で完結した。
 素晴らしい。コミックという表現分野において鉄コン筋クリート以来の収穫。今年のベストは決定したも同然やね。『すり変わる』というモティーフをさまざまに変奏しながら3巻にいたって堂々たる(本当に!)エンターテインメントの骨格が姿を現すダイナミズムと言ったらたまらない。しんしんと心に染み渡る結末と最後のカーテンコールは絶対に必要なものだったし大きな効果をあげている。
 テリー・ギリアム監督で映画になんないかなあ。

「私がなにか?
 私はシノブ
 片仮名でシノブ
 呼ばれる名があれば
 それでたりるよ」
 (シノブのこと)

(5/24 1997)

南島病(comic/藤原カムイ/所出年不明)

 一番好きな短編コミックは?と問われればわたしはためらいなくこの作品を挙げる。
 水を描かせたら藤原カムイに並ぶ作家はいない、と思う。『H2O Image』の空白の時間のなかでメイムとベッツィーが再会するシーン(詳細は省略!)なんか、全身総毛立つほどに凄いからね。
 で、この『南島病』。たった8頁の作品だが一読忘れられない印象を残す紛れもない傑作。ほかに紹介のしようがないほどに完成された作品なので無責任なようだがもうこれ以上どうしようもないのだ。

夢十夜(novel/夏目漱石/1908)

 第三夜……子供を棄てに行く話……が、私にとってのモノガタリの原型なのだと思う。神話めいたほどにプリミティブなそのモノガタリに当時中学生だった私は強烈な印象を受けた。
 鈍器で頭を殴られたような衝撃の中で、私は世界という至って曖昧模糊とした鉛色の霧のようなものの中からなにものか(夏目漱石が「黒い光」と言い、芥川龍之介が「黒滔々たる闇」と言い、中島敦が「世界の残酷なる悪意」と言った、その存在)が忽然と姿を顕す、そのダイナミズムこそが運命と呼ばるるものであり、またモノガタリそのものなのだと感じた(或いは、信じた)のだ。
 今でもその確信は間違ってはいないと思う。尤も、自らの誤謬に未だに気付けないことが自分の最大の不幸なのかもしれないが。

羊のうた(comic/冬目景/1996-)

 かなり個人的な基準ではあるのだけど、本当に凄い作品てのは何がどう凄いのか理路整然と説明できない作品だと思う。
 というわけで『羊のうた』である。
 嗜血症……血液病に由来する物……そして、自らの血脈に由来するもの……という設定。繊細な心の揺れを伝える卓抜した画力(それにしても沙村広明と同じ大学の先輩後輩の間柄にあったというのはさもありなんという感じがするよね)。八重樫萌え(笑)。優れた要素は幾つもあげられるけどそれだけではとてもこの作品の凄さを説明したことにはならない。それらの背後に潜む名伏しがたい物こそが本質なのだ。
 コミックBIRZで隔月連載されているこの作品、まだ単行本も第一巻が出たばかりなのだけど吸血鬼文学という文脈において今後の展開が注目される。まさかないとは思うけど単なる難病物などには堕して欲しくないよね。

roka(CD/遊佐未森/1997)

 rokaとは濾過のことらしい。
 個人的には濾過と聞くと恒圧濾過の実験で炭酸カルシウムにまみれたのが憶い出されてアレなんだけど(笑)。
 巷間で囁かれているよう、トラック1『ロカ』が歴代の遊佐の楽曲においても白眉。なんと言っても詞(作詞:遊佐未森)が女性にしか知り得ない感覚を描き出していて凄みさえ感じてしまうのだ。
 本質的に遊佐未森の音楽てのは One and Only なものなのだと再認識する(アコースティックとかヒーリングミュージックとかいうカテゴリーで括ってしまうのにはしのびないと俺は思う。特にヒーリングてのはちょっとね……)。初期の背伸びしたような作品から中期の実験的なのを経て、いま自在な境地からゆったりと落ち着いて歌っているのだろうと感じる。その分『ロカ』以外の曲調の幅に乏しいかな、という気もするけど聴いてるうち或時突然別の表情を見せるのが遊佐の楽曲だから今とやかくいうのはよしとこう(笑)。
 冊子の写真も好い。
 夢の光景のよう透明で、儚く。
(十六夜さんのレビューはこちら


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