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ものづくし

(3/31 1999 〜 7/18 1999)

もの (material) にまつわる憶い出いろいろ
こたえられないことなら/何となくわかってる

東風吹かば(3/31 1999)

 3月30日の早朝、板橋着。
 都営三田線新板橋からあらかじめ貰っていた地図を頼りに寮に向かう。ちょっと古寂びた住宅地を抜けると紅とも白ともつかぬ色が目に飛び込んできた。それが石神井川の川べりに並ぶ桜だと気付くのに数瞬。川面を見ると、雪を散らしたように花弁が流れゆくのが見える。そんな花の下を不安と昂揚とが入り交じった心持ちで歩いた。
「こちふかば」
などと呟きながら。
 寮は想像以上に綺麗だった。館内土足禁止なのも良い結果をもたらしているのかもしれないし、だいいち建ててらてからそれほど年数を経ていないからだろう。
 引っ越しの荷物が届くまでの間、自分の部屋でぼんやりすごす。3メートル四方ほどのなにも無いフローリングの部屋。その隅に座り込んでいるうち、これからどうなっちゃうんだろ、と思ったりもした。

猫地図(4/18 1999)

 会社勤めが始まって学生時代と何よりも変わったのは休日の重みだと思う。私の場合、学生は平日に遊ばなアカンという信念を持っていただけに尚更ね。だから、というか休日はなるべく出歩くようにしている。今のところ、身の回りの品をなんやかやと揃えなくちゃならないので近所のスーパーやダイエーや、せいぜい東急ハンズに行く程度でまだ映画や美術館には行けてないのだけど。
 今の住居は地下鉄・JR・東武の各駅に歩いていけて池袋までひと駅、新宿までふた駅というかなり便利なところなのだけどその分東京のひとの多さに呆れ返ったりもする。阿倍野ぐらいの、好いスケールの街はどこかにないもんかなぁ。でもま、そのうちきっと居心地の好い点を結んだ私なりの猫地図が出来上がるのだろう。その意味じゃ、全然心配してない。陽あたりの好いトコロを見つける能力に関しては結構自分を信頼してるしね。今のところの何よりの問題は最寄りの書店が土日には閉まってしまうことぐらいかな(笑)。うーむ。

大阪物語(4/25 1999)

 今日はテアトル新宿に映画を見に行ってきた。タイトルとちっさいスチル写真を見ただけで、なんとなく気になっていた『大阪物語』。
 5週目だし余裕で見れるかなと思って劇場に行くと妙にひとが多い。入場してから知ったのだけど上映前(正確には前回上映の上映後)に池脇千鶴の舞台挨拶があるらしく、まぁラッキーかなとも思う。実際に見た池脇千鶴は特にどうってことない、だけど確かに利発そうなお嬢さんでした。ただ、憑かれたようにフラッシュを浴びせていた濃い衆はちょっとアレだったかも(^_^;。で、私はその後本編を見ることになった。
 やー、好い映画だった。生よりもフィルムの上でこそ映えていた池脇千鶴も好かったし、売れない芸人役を演じた沢田研二が最高。くたびれたダメ男ぶりに惚れ惚れする。いやホント。あと画面がすごく綺麗。景色がどれも知っている光景な事もあって、何とも好い。これには監督の市川準が関西の人間ではないこともよい効果をあげているのかもしれない。過剰な思い入れがないぶん、風景が普遍的なものとなっているのかも(づぼらやの提灯とかグリコの看板とか、ややステレオタイプに陥っている部分もあるけどね)。でも今回初めて気付いたこととして大阪の光景は遠景に生駒の山が見えて、初めて大阪なんだね。近畿に住んでいるころは意識もしなかったことだけど。
 はじめは少々空回りしているかなと思わせた物語もある時点からコトッと歯車が噛み合い、それからはグッと来た。「大阪のコテコテのドタバタ」を期待しないひとにはちょーお勧め。自転車の疾走感に代表されるよう至って爽やかで、微かな苦みを添えたお話。星で言うなら三つは確定。こういう映画こそ海外で公開すりゃいいのにね。
 あ、書いてて気付いた。はじめ『やんちゃくれ』にこういうモノガタリを期待してたんだ、私。

髪を切る(6/26 1999)

 髪を切った。
 前夜、技術系同期で呑んで醜態晒した挙句15時すぎまでフテ寝し、手首を切らないのならせめて髪でも切らなきゃやってられん気分だったから……というわけじゃなく、あくまで規定の行動ね。近所に気のいい兄ちゃんのやってる理髪店があるので、普段から髪はそこで切ることにしている。今回はいつもの無造作なセンター分けからちょっとカットを変えてみて、なかなか新鮮な心持ち。『われもこう』でも口ずさみたくなるような。

 その後渋谷シネアミューズに映画を観に行くことにした。これまた映画でも観なきゃやってられん気分だったからというわけじゃなく(しつこい)。
 61年のフランス映画『突然炎のごとく』。例によって予備知識は全くなかったのだけど、どこかで目にして以来心の片隅にずっと留まっていたものだ。21:30〜のレイトショーのみということで躊躇していたのだけど、7/2までということで決心して観に行くことにした。帰りの電車があるのかどうか不明だったけど、ま、池袋までたどり着ければ歩いて帰れん距離じゃない。
 19:30頃に渋谷着。よく考えたら渋谷は初めてになる。劇場はBunkamuraのそばにあるらしいので、途中丸井やパルコを冷やかしながらてろてろ歩く。へー、パルコブックセンターてのも結構いい感じやん。池袋のジュンク堂、青山ブックセンター新宿店についでチェッキンだなぁ。で、Bunkamuraまではどうにか辿り着いたけどシネアミューズが見あたらない。探す探す。焦る焦る。Bunkamuraのまわりをぐるぐる回った末に漸く発見することができ、上映数分前になんとか滑り込むことができた。あーよかった。しかしわれながら相変わらずの方向音痴やなぁ(^_^;

 それは、確かに映画だった。
 解りづらいかもしれないけど、まさにそんな感想を抱いた。始まってすぐのシーン。テレーズが煙草をふかしながら部屋の中を歩き回るのを追うキャメラに、ああ、ここに映画が在ったと無性に嬉しくなる。ひと繋がりとしての物語として捉えたときにはかなり破調な映画であり、パンフレットで小林政広の言うよう、

ウェルメイドなどという言葉からは程遠い、奇跡のような作品

には違いないのだけれど、シーンや台詞の一つひとつはあまりに鮮烈で心に突き刺さる。
 物語はひとりの女性(ジャンヌ・モロー)と二人の男との恋愛と友情との三角関係を描いたもの。曖昧な関係を曖昧なままに保とうとする試み、とそれが破綻するまでの顛末……いや、違うな。
 この映画のジャンヌ・モローのよう、心の儘に動き異性を翻弄する女性(男性)はきっと存在するのだけど、それは「無意識の偽善」や無論悪意に由来するものじゃなく、きっとそうすることが彼女(彼)にとって最も生理的に自然な行動だからなのだろう(だから出来合いの道徳律に押し込めて非難するのは明らかに筋違い。それもあなたの道徳律でしかないのだから)。そして、いちばん大切な部分として彼女(彼)に翻弄されることの快楽というのは、風邪を引いて微熱に浮かされている時のような生理的な感覚として、確実に存在するのだ。快楽てのは恋心とか嫉妬とか、そういう馬鹿気たこもごもに一喜一憂している自分自身を醒めた目で観察する楽しみ、を含めてね(ナンの話してんだか。ま、創作メモということで)。
 観終わった後、誰かと話したくなるような映画、いろいろ思いをめぐらせてしまう映画、印象に残ったシーンを指折り挙げられる映画――要約すると、好い映画だった。

 結局、家には終電まで30分ほど余して帰り付くことができた。なんだ余裕やん(^_^

カメラ(7/8 1999)

 木村伊兵衛特集ということで購入した『太陽』7月号。
 木村伊兵衛の神業的なスナップの数々もさることながら巻頭の荒木経惟・緒川たまき・野村佐紀子の浅草散歩記事が好いなぁ。木村伊兵衛をダシにしたフォトセッションという感じで。浅草〜上野ら辺というのはちょうど最近たつろ君・十六夜くんと彷徨ったばかりで、神谷バアやら蓮玉庵やら、体験とのシンクロ具合がなかなか楽しかったりして。

遺された木村の膨大な街角のスナップ写真を眺めていると、なぜだろう、どこまでも許されている気持ちになる。始まりもなければ終わりもなく、ありきたりで無残な人生を許されている気持ちになる。
(日下部行洋)

 だけど、それでも。
 カメラのシャッターを切るってのはとても残酷な行為なんじゃないだろうか。誰に/何に対して残酷なのかはよくわからないけれど、確かにそんな気がする。

記憶(7/16 1999)

 最近フランス映画づいている……積りもないのだけど、また夜映画を観に行ってきた。今回はシネセゾン渋谷にて『未来展望』『ラ・ジュテ』という短編二本の上映。会社からいったん帰宅し、蕎麦と込み入った事情によって入手した鯛の刺身とで夕食を済ませる。その後私服に着替えて渋谷に出た。しかし渋谷と新宿は夜になっても一向に人が減らんね。むしろ夜の方が多いくらい。あらかじめ@ぴあで場所を確認しておいたおかげか、21時前にすんなりとシネセゾン渋谷までたどり着くことができた。上映開始が21:20からなのでちょっと早く着きすぎたかなと思いながらエレベータで6階に上がる、と開場を前にしてすでに30名ほど行列ができていた。うーむ、君達ちょっとヘンだぞ。そんなことでいいのか(人のことは言えない)。

 『未来展望』の方は観終わった後にナンじゃこりゃ、と激しいツッコミを入れたくなるような作品だったので私としてはかなりどーでもいい。もっとも帰宅後パンフレットのテキストを読むとなんだかすごい作品だったような気がしてくるから不思議だ(笑)。
 で、実際この上映を観に行くキッカケともなったのは二本目の『ラ・ジュテ』の方だった。
 これは映画なのだけど動画ではない。卑俗に言えばスライドショーみたいな形式を持つ作品。モノクロームの画面の上にモノローグとSEとが重なる。ただ完璧なまでに制御されたカットのタイミングやモンタージュがあくまでこれを映画たらしめている。実際観ている間はなんら不自然には感じない。むしろ形式とモノガタリと作品のサイズ(28min.)とが各々それ以外考えられない必然性を持って結合していることを知る。
 精神的時間旅行者の錯綜する記憶のフラグメント。幼いころの記憶。失われた過去への憧憬。幻のような現実と夢のような幻。数え切れないほどの鳥、の剥製を収めた博物館。大樹に刻み込まれた年輪、とそれを辿る指先。木漏れ日の中で微笑む女。求めようとして得られないもの。堪らないほどの切なさ。なぜ切ないのか、いったん失われたものを回復しようとする行為は、総て必ず失敗に終わることを私たちは幾度となく経験し、知っているから。だから痛いほどにやるせなく、切ない。
 完璧な短編小説にも似た感触。1962年の作品だとは到底思えなかったのは、この作品を構成する総ての要素が普遍性を持つに至るまで結晶化している所為なのだろう。とにかくこれはどんな手段をとっても一度は観て欲しい作品だと思う。流星のようにココロを突き抜けて、その後に傷にも似た何かを遺す。

(サブテキストとしてシナジー幾何学『GADGET』エンキ・ビラル『モンスターの眠り』平井宣記『楽園の夢』『記憶の旅人』を挙げておきます。蛇足ながら)

匣の中の失楽(7/18 1999)

 板橋区はエコポリスと標榜して種々の環境問題への取り組みを行っている(らしい)。そんな中のひとつに汚水処理施設での蛍の人工飼育というものがある。で、普段は昼間見学できるらしいのだけど、年に二度、ちょうどこのころに夜間の公開が行われるという。二度なのはゲンジボタルの時期とヘイケボタルの時期、それぞれ3日ほどづつってこと。今日はヘイケボタルの公開日だったので、一時間半もの行列にも負けず高島平まで観に行ってきた。

 温室の、けれどひんやりとした空気の中に再現されたミニチュアのせせらぎ。その、蔭が落とし込まれた草叢の中でLEDのよう、明滅を繰り返す幾つものかそけきヒカリ。温度を持たず、くらやみのなかでひそやかに囁きあう。時にくすくすと笑いあう。
 記憶のリンクを持たない私にとって、その光景は現つのものとは到底信じられなかった。湧き上がった感情をノスタルヂアに帰することもできず、持て余したままに脈絡も無く「未満」という単語が浮かんで消える。ミニアチュールの夜空なのか、電子の森に泳動する情報なのか。それらは今の時代の気分にあまりに似つかわしいもののように思えたのだけど、硝子の匣の中でしか生きられない蛍の姿は、確かに私たちが犯した罪の証なのだ。

 太陽8月号の特集は『人形愛』。澁澤龍彦『人形愛序説』がエピグラムに掲げられているとおり、S.M.H.vol.11『関節人形』とお互いがお互いを補間しあうような内容。石塚公昭の作家人形とか岩井天志のオートマタ・ムーヴィとか、気になっていた同時代作家のものはもとより、東西のからくり人形とか蝋人形、マネキンにまで視野を拡げていてくれていてくるのが好い。特にマネキンを人形の系譜の中に位置づけるというのは私としてはとても新鮮な試みだった。

子どものときって、みんな(……)空を飛ぶ幻想を持ってるじゃない。それが思春期になると、生殖という重力の場に入ることで地上に引っ張られて落っこちちゃう。物質の重力場に入っちゃうから、どうしても汚らしい(……)。彫刻はそれに対抗して精神上でもって上へ上へ、つまり物質性を希薄化しようとするけど、人形は逆で(……)。物質性とか不具性とかの中に上から落っこって埋没する。そこからもう一回空を飛ぶ幻想みたいなものを取り返そうとする。
(種村季弘)

 人形もまた、人工楽園の残滓であり、犯した罪のひとつの形象なのかもしれないね。


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