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ものづくし

(2/10 2000 〜2/27 2000)

もの (material) にまつわる憶い出いろいろ
いつまでも/そんなにいつまでも終わらない歌が要るのだ

冬の日、夏風を聴く(2/10 2000)

 年始早々、風邪を引いていた。
 正月の帰省が往復夜行バスだったのに加え、西側とこっちとで遊び倒した強行軍が響いたんだと思う。うーん、もともと無理のきかん身体だってことをつい忘れてしまってたね。風邪はおお熱にまでは至らなかったのだけど、鼻と喉に来たのがさんざんだった。こんな時は他にどうしようも無いので大人しく布団にもぐって養生に勤めることにする。
 「風邪は一人暮らしの醍醐味」とはm氏の至言だけど、確かにどうしようもなく心細くなるもんだね。なんだか世界の底に一人取り遺されてしまったような心持ち。こんな気分になるのは久しぶりだな。古は、随分と親しい感情だったのに。
 二夜めを越したほどから大分ましになってきたので寝転がりながら本など読みはじめることにした。買ったきりになっていた本が何冊かあったので、適当に手にとってみる。それが長野まゆみ『夏至南風』だった。

「腐臭がした。」
「いいな。腐ったものか。」
「醜悪だよ。」
「だから、いいんぢゃないか。みんなほんとうは汚いんだしさ。」

 坂口安吾『桜の森の満開の下』なんかを引くまでもなく醜と美との境界は、聖と狂との境界と同様、世間で信じられているほど判然したものじゃない。自分の尻尾を食んでいる蛇のよう、雲のように曖昧に確率論的に重なり合っているものだと思う。
 季節は夏なのに、何時かはうつろう四季のひとつに過ぎないはずなのに、もしかしたらいつまで経っても夏なのかもしれないと思わせるよう、鬱鬱と垂れ込めた空気。身にまとわりついて堪らないのに、どこかで拒絶しきれない気怠さ。海に接した街を舞台にした少年たちの危険なゲーム。闇や蔭の中にだけ息づいているかのような、だけど歯を剥き出しにした笑いだけが印象に残る男たち。過剰な肉の匂いを撒き散らしながら周りで怒ったように笑う女たち。そしていつか少年たちはわれしらず、自分の命までも賭に投げ出してしまう。黒に限りなく近いグレーが黒に変わる不連続線を踏み越えてしまう。
 甘い情緒とは無縁な文体が心地好く耳に響く。微熱にも似た酩酊感。いや、その時私は微熱そのものだったんで、何とも言い難い読書体験になってしまった。これは幸福な読書体験に含めてしまって好いものだろうかね?

 以下川原センセへの返信。
 Biogon 28mmが好いらしいという評判はあちこちで聞くのですが、それだとレンズの長さがいま持ってるTiaraとかぶってしまうんですよぅ。だから広角側はBiogon 21mmを狙っています。外付けファインダーに男の子魂を擽られたってのもあるかも。でも高価いから購入は当分先の話ですね。それまでに磨くべきはカメラのボディではなく腕だったり。ハイエンドのキカイの話はよう判りません(^_^;

縁側(2/11 2000)

 そうそう、ロシアのプーチンって私にとっての石田三成のイメージと重なるところがあるのだけどどうだろう。一見、謀の人に受けとられれかねないのだけどその実、単に忠義高い有能な官僚にしか過ぎないという意味で。でも彼って浦沢直樹キャラみたいな顔つきだよね(笑)。

 さて今日はOZONEで行われたリビングデザイン賞『縁側』のシンポジウムを聴きに行ってきた。この賞は、一般から公募されたテーマに対してプロと学生が一次審査ではA2径のボードで、最終審査では立体モデルによってコンセプト・モデルを提案するというものだ。で、今日は最終選考に残った15点のコンセプトからグランプリが決定されて、それに付随する形で審査員によるシンポジウムが行われた。
 今回のテーマは『縁側』。審査委員長の柏木博によれば縁側というのは『都市生活の中では殆ど失われてしまった空間』ではあるわけで、今回の提案はいずれも、現代の都市生活の中でいかにして縁側的なものを再話するかに各々のアプローチが見られた。ただ、審査員の側からも内田繁の「縁側という概念を拡張してゆけばゆくほど、縁側的なものはともすれば失われてしまうことになる」とか服部真澄の「いったん失われたものを改めて取り上げることに意味はあるのか、そのことにひとつの出発点を持っていなければならない」とかいった発言もシンポジウムの場では聴くことができた。
 おおよそすべての出展作が縁側というものをウチとソトとの境の曖昧な空間(バッファ)として捉えていた。ただ、中間領域を形成するのが私的空間と公的空間の間(縁側をコミュニケーションの場として捉える)なのか、それとも私的空間の中での、さらに内面と向かい合う空間との境であるのかで出展者の捉え方は大きく二分されていた。前者でいうと、プライバシーと共生の折り合いをどういった形で付けるのかが重要になってくるのだろうし、後者ならばそれでもなお外界に開かれたものでなければならないという趣旨の発言がシンポジウムでもあった。形式面でいうと、建築的なアプローチと家具(プロダクト)的なアプローチとに二分されていたのだけど。
 グランプリは松永基・櫃割弘文による『ENGAWA SPACE TONNEL』縁側をウチからソトを眺めるときのフィルターとして捉えたコンセプト。モデルは蔓と竹で編まれたひと一人が納まるほどの篭状のオブジェ(というかスペースというか家具というか装置と言うか)。服部真澄が評した「縁側というより、むしろ縁台的なもの」という言葉がもっとも的確なのかもしれない。隙間だらけに編まれているから決してタコツボ的な印象を受けない。展示されている実物大のモデルを眺めているうち私は、寛容という属性は高邁な理想や純粋さなんかじゃなく、むしろしなやかさや強かさによって裏付けられるものなのかもしれないな、とかそんなことを考えたりもした。松永基によればこの原寸モデルを造るのは結構重労働だったそうだ。山に蔓を刈りにいき、それを自分達で編み上げた体験をユーモアたっぷりに述べた後で語った「ひとつのオブジェクトではなく、時間と体験と経験。そして出来たもの。すべてがひとつの縁側ではないか」という言葉、さらにそれを受ける形で柏木博が言った「イメージを実現するノウハウ。コンセプチュアルだけど肉体的なリアリティ。そういったものを持っている提案は強い」という言葉は私の胸に残った。コンセプトのない作品はもっとも弱いには違いない(それらは単に隙間を埋めるための商材でしか無いと思う。例え無償の仕事であってもね)。だけどコンセプトだけでも、きっとまだ足りないのだ。詩にもまた、詩のリアルが必要となる。

 シンポジウムの場で出た、他の印象的な発言は以下のようなもの。
「公と私の相互浸透。通過と滞留」
「茶室における露地。或いは橋の役割。橋そのものには 出来事 がない」
「野立ては身体感覚において家を仮設する行為に他ならない」
「都市が過密化してゆく中で、どのように繋ぎの場所を用意/確保/提案するのか」
「壁の建築への依存、からの脱却」

 多分これから、いま家族って言う血縁によって保たれているクラスの集団はどんどん多様化してゆくのだと思う。ひととひととの繋がりかたが物凄いスピードで変わってゆく中で空間の提示(建築だけじゃなく、電脳や法律なんかのソフトの部分も含めて)にはやらなきゃならないことが残ってるんじゃないだろうか。
 しかしこういう場に出てくるひとが年下だったりした日にゃどうすればいいのだろうね。ぬーん。

雪が降ったり降らなかったり(2/27 2000)

「夜半すぎから降り始める雪はあしたの午後まで続くでしょう」とラヂオが言ってた週末、私はなぜか二子玉川にいた。
 そもそもの目的は買い物だったのだけど目当てのものは結局見つからなかった。このまま尻尾巻いて帰るのもアレだしどうしたもんかなあ、と思いながら高島屋の裏の方をぷらぷらしていると何となくココロ惹かれる食べ物屋があった。私の場合、美味しいもの食べるのも仕事のうちだと思っている。だけどディナーは一人では行きづらいし、何より先立つものが無いんで週末街に出たときは昼食に、なるたけいろんな店で食餌を取るようにはしたいなとは考えている。現実にはモスやファーストキッチンやサブウェイで済ましちゃうことの方が多いんだけどね。
 店は『馳走屋』て言う創作料理系の店。店は地下だったので下りてみると間接照明の効いた、小綺麗でなかなか好い雰囲気。一人だと告げると中央の大テーブルに案内された。カウンター的な用途なんだろな。この店が気になった理由というのが表のランチメニューに書かれていた『豚の角煮定食』だった。なんだか今の気分にすっぽりマッチしたのだ。迷わず注文する。味の方も期待通り。とろけるほど煮込まれてるのに至って上品な味つけ。茶碗の触感も気持ち良く、ほくほくと倖せな気持ちになってくる。なかなか好い店でした。ニコタマに来た甲斐があったな、と思ってしまうほど。
 で、結局この週末は雪は降らなかったんだね。まさかその報いを翌週受けることになろうとは。

 私にとって、雪国てのは遠くにありて想うもので出張で行くところじゃあないよな、とか感じた今週だった。特に私はウインタースポーツに縁のない人だから膝までの積雪なんて初めての経験。で初めて知ったんだけど新雪よりも、踏み固められてアイスバーン状態になった駅前とかの方が歩くのに難儀するんだね。大きな鞄を肩から下げてあっちへふらふら、こっちへふらふら。これではまるでおのぼりさんだ(そうなんだけど)。しかし他の人は普通の靴なのにどうしてあんなに素で歩けるのかすごい謎。彼らはジャパニーズニンジャか! いや、さすがに厚底ブーツはいなかったけど。

 新宿の青山ブックセンターで『S.M.H. vol.16』と『羊のうた(4)』を購入。
 『S.M.H.』はなんだか『夜想』みたいになってきた。当初この雑誌が持っていた若さ馬鹿さヤバさ(褒めてる)は薄れてしまった気もするけど、今の状態も嫌いじゃない。新しい血を導入しようという意思も感じられるしね。今号のベストは沼田元氣の20頁、中段左端の写真と片岡まみこ+坂野順の作品。特に片岡まみこ+坂野順のコルク人形はテキストさえなければどこまでも開かれて行ったろうに。どうしてあんな変なものを付け足したのか、はなはだ疑問。
 (4)巻が出てるってのをすいすさんの日記で初めて知った『羊のうた』はね……えー、どうもコメントしづらいなあ。悪い作品なのじゃない。丹念に心理の流れを追う演出は相変わらず冴えているし画も言わずもがなだしいずれも素晴らしいもの。コメントしづらいってのは、私自身が『姉のいる弟』だということに由来するわけで。うーん。そのへんがなんとも妙な形でシンクロしてしまったりして。『弟のいる姉』なるひととか、その辺どうなんだろ?


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