[表紙] [縁起] [画蒐] [雑文] [因果]
[旧記] [新記]

ものづくし

(3/5 2000 〜4/8 2000)

もの (material) にまつわる憶い出いろいろ
「現世(ウツシヨ)ニ想(オモヒ)ヲ得ズ。」

啓蟄(3/5 2000)

 南都でお水取りが始まったという便りが聞こえて来た途端、冷気が何処かへ行ってしまったかのよう。週末の天気はあんまり好くないんだけどね。今日は昼過ぎに起き出してブランチにホットケーキを焼く。牛乳がなかったのでちょっとヨーグルトを加えたら、これが大正解。紅茶と一緒に美味しくいただいた。お腹も満たされたし、窓の外も曇天だったんで今日は外出するのはやめにした。で、小川美潮などを聴きながら『コン・ティキ号航海記』を再読する。この本を手にとったのは海洋開発関係の海外ドキュメンタリーを最近見たからだった。50〜60年代、アメリカによって行われたシーラブ計画。要は海底に建造物を設置して最小限の補給で人が生活するというもの。後期にはNASAも共同研究に加わって、有人宇宙飛行のデータ採取に活用されたとのこと。
 たとえば『白鯨』は読んでるうち手先が獣脂まみれになってくるような本なのだけど、『コン・ティキ号航海記』の場合肌に感じるのはあくまでも潮風と降りそそぐ太陽なんだね。あやういほどにロマンティックな雰囲気。過去を見ていたヘイエルダールも未来を見ていたNASAも、どちらの方角からも光が射し込んでいた、時代の座標軸の所為なのかな。でも、それは本当に本物のヒカリだったんだろうか。いや確かにその瞬間降りそそいでいたのは祝福された本物のヒカリだったのか。

 日が暮れてからは web 漂流。web 日記などを読んでいるうち、たまにどきっとすることがある。あれ、自分が居るって。フェイバリットな本だったり、文体だったり、もっと別の何物かだったりするのだけど『もう一人の自分』を鉛線の向こうに感じてしまうときがある。こんな感情を抱くのは私だけなのかな? そんなとき、なぜだか許されていると感じてしまう。同じ嗜好を持っているというだけでココロ安らぐなんてのは、普段私は絶対に忌避しなきゃならないと思っている感情の筈なのに。

君が胸のうち
たましひのとびら奥深く
せうせうと棲むをみなひとなり。
君が片身。
君が分心(ドッペルゲンゲル)。
(尾崎翠)

 そも、私はついに許されちゃいけない人な訳で。
 難しいね、どうも。

(おまけ)
 をを、知らぬ間にこんな頁が。

春(3/14 2000)

 書店で見掛けた瞬間ココロ奪われて、買わなくちゃいられない気持ちになる本てのがある。それまで聞いたことも無い名前だったのに、いま、ここで買わなきゃきっとついに出逢えないと感覚が命令する。そしてそうやって手に入れた本は、殆どずっと記憶に遺るものとなる。これまでだと植草甚一とか長野まゆみとかね。
 こないだ、幕張の書店で買った加納朋子『魔法飛行』も、そんな本のうちのひとつだった。カバーと帯に惹かれた所為とも言えるんだけども、読む前からきっと素晴らしい作品だという確信があった。そして読んでみてその予感は間違っていなかったことを知る。

 19歳の秋から冬に掛け、短大に通う主人公の出逢った幾つかの事柄。主人公はそれを物語のようなもの、に書き留めて知り合いの童話作家に送る。そして年上の童話作家は、主人公の出逢った事柄の真相を解き明かす――「魔法飛行」という小説はそんな枠構造を持っている。そしてその枠が二重三重の余韻を遺す(このあたりすごく巧い。舌を巻くほどに)。

 書く=伝える。
 誰に?

 ためらいながら、立ち止まりながらも、眩しいほどにまっすぐな問いかけ。私もこの頃はいろんな事を山ほど考えていたっけと憶い出す。駒子のように日常に押し潰されそうにもなっていたっけ。
 堪らないような瑞々しさに胸が、痛い。

 この物語が書かれたのは93年。
 まだ、闇を背負う前だから。

 たとえば暗がりの中、寄り添うように浮かぶカストールとポルックスのよう。
 そんな小さきもの、弱きもの、儚きもの、そしてたぶん聖なるもののために私は生きてる。

 春がくる。
 私の周囲でもいろんな事が起こっているよう。
 結婚する人、フリーになる人、靴を造っている人、アナウンサーになる人。

「どうして人間は、大きくなったら何かにならなきゃ、ならないんでしょうね?」
(ハロー、エンデバー)

 さて、私は?

XANADU(4/8 2000)

 不意に、巷に垂れ流されることばがたまらなくなることがある。
 だれかの偏狭な価値観や窒息しそうに矮小な日常、 進まない時計と叶えられなかった希望の数々を投げつけられ、「もうやめてくれ」と耳をおさえて目を閉じて叫びそうになる。電車の走り抜ける高架下に立ってしまったときの、あの気持ち。

そのうえ彼らは、自分は醜いというときにも飾るのである。醜さの告白に酔って、歌うように語るのである。
(関川夏央『「かの蒼空に」について』)

 そんなとき、耳がテクノに渇いてゆく。だから新宿のHMVに出かけた。
 私の観念の中でジャズとテクノってのは「音楽」と「音楽ではないもの」との界面上に位置している。尤もどちらのジャンルにしても蓄積は殆どないんで直観と言うか、ただの願いでしか無いのだけど。で、今回はJazztronik『numero uno』というアルバムをジャケ買いした。
 透明な、音。まみずのように。
 全体にボサノヴァがフィーチャーされていてなんとも脳に心地好い。ココロの洗濯気分。前言を覆すようだけど、これがテクノでなかったとしても構わないと思えるような、そんな音楽。好い出合いをしたとたまらなく嬉しくなる。

 在原晃士さんのサイト。ふとした拍子に見つけて以来、こころ奪われてしまったページ。誰かのノートを覗き見ているような感覚。だけどこの人の題材の捉え方、思索の深め方、そして表現力。どれもが凛として卓越していて、それらが混然となってひとつの空間を作り出している。五味太郎ではないけれど、『じょうぶな頭とかしこい体』を持った人なのだろうなと感じる。
 だけどそれらはあくまでノートなのだけどね。完成した作品ではない。

 違う。

 未完成なノートを公開しているからこそ、素晴らしいんだ。だってハイパーテキストってそういうことでしょ? 生成途中の思索を公開し、共有化する。時間・空間に束縛されない世界での情報の共有化は思考の共有化に直結するはずで、様々な思考が共鳴しあうことでどんどんフラクタル化してゆく。他の、下らないもろもろのものさえ含めて蜘蛛の糸で縫い併せることで、パッチワークにどんな絵柄が生まれてくるのか。世界をどのように変えてゆくのか。

 ザナドゥはまだ見えないけれど、きっともう遠くないと信じられる。それで充分じゃないか。

(CGサイトの完成も楽しみにしています。この方の描かはる画の方もすごいセンシティヴで、私はファンなのです)

【追記】本稿書いた後でちょっと調べたらテッド・ネルソンていまsfcに居るんだね。知らんかった。数年前、北海道に居るってのは聞いてたけど……。


Go to older/newer descriptor.
Return to upper/top page.