[表紙] [縁起] [画蒐] [雑文] [因果]
[旧記] [新記]

ものづくし

(9/17 1997 〜 12/9 1997)

もの (material) にまつわる憶い出いろいろ
山場を越えてやるぜと断固たる決意で挑む激動の日常!(嘘)←嘘かい


シンプル・シンプル (9/17 1997)

 2000年にミニがモデルチェンジするんだってね。
 世の中には変わる必要も無いものって言うのがあってミニなんかはその最たるものだとは思うんだけど、もしたとえばオリジナル発表当時の志を現在において包み込むパッケージは存在し得るか、というスタンスだったら面白いとは思う。どうなんだろ。

 ふとしたことからMacintosh Classic2+System6を触る機会を持てた。そして実際に触ってみてかなり感じいるところがあった。
 ひとことで言えば「何とも愛いやつ」とでも言おうか。モノクロの9インチディスプレイのデスクトップは、だだっ広い今のものよりも余程見通しがよく機能美を感じさせる。ただFinderを操作してきびきびとしたレスポンスを眺めるだけで何とも心地好い気分になってくるのだ。Macintoshというマシンの本来持っていた情熱や志が角形マウスを握る右手から伝わってくる。Macintoshは道具だ、と言った人がいる。だけど、同じ道具と言ってもこのClassic2を万年筆とするなら現行の機種はNC旋盤ぐらいの違いがある。今のコンピュータの進化の道筋が間違っているとは言わないけど、その進化が唯一のものではなかったはずだ。
 だから、なのか。懐古趣味なんかではなく本気で欲しくなってきた。この娘が机の隅にちょこんと鎮座してスケジュール管理なんかをしてくれたら日々の生活がたまらなく色めきたってくるだろうと思う。要するに「持ち歩かないPDA」として、ね。

 てらいも恥じらいも露悪も韜晦も無くシンプルであり続けるのは難しいことだと思う。だからこそ、とても大事なことなのだけど。AXIS vol.69に載っていたフライングフェザーという名の自動車を見てそう感じた。1955年製の日本車は当時は遂にその志は伝わることが無かったにせよ、いま改めてみるとミニマムな姿がたまらなくいとおしくて素晴らしく美しい。
 さて、このAXISは『「今」を語る多彩な色』て事で色の特集をしていてなかなか得るところが多い。中でもサントリーの烏龍茶の広告なんかを手がけているグラフィックデザイナー、葛西薫氏のこの発言がベスト。

風合い(色)を生かすため、照明などは使っていません。
その色になるまで、じっと待ちました

 AXISは次号からリニューアルをするらしい。寡聞にしてリニューアルをして内容のよくなった雑誌を僕は知らないのでちょっと不安ではある。いまの硬派な雰囲気を保ったままで居て欲しいんだけどね。
 て事で話はうまく冒頭に戻ったかな☆

銀塩写真 (10/7 1997)

 今更ながら、ではあるけれど。
 プリクラってシールを作るためというよりはむしろ、寄り添うためのツールなのかもしれないとふと思った。というか、少なくともバンダイの開発者はそういう風に分析したのだろう。しかしもしそうなら巷間の自称メディアアーティストたちになる自称インタラクティブアートはことごとく駆逐されてしまうよなぁ。なんせプリクラの方がはるかに誠実に現在のこの世界と向かい合い、かつ普及し、そのことで世界に何らかの影響(パルス、或いはノイズ……何でもいいや)を与えているのだから。

 前期試験は怒涛のうちに(笑)過ぎ去り、後期の授業が始まった。後期はできるだけ1コマ目を空けて授業を取るようにしたので(だって寒いしね)火・水曜日が午後からという案外優雅な時間割となる。そこで今日は登校途中、阿倍野の近鉄アート館でやっている『木村伊兵衛写真賞の20年』展に行くことにした。
 写真展、というのはやはり形式で切り取られた展示方法であるわけで、1975年からの受賞作が時系列に並べられた会場……江成常夫のような写真を言語として用いたフォトルポルタージュの手法があるかと思えば、緊密に計算され構成された渡辺常夫の画面、或いは小林のりおの強靭さや感性一発で空間を切り取り名伏しがたいものを忽然と浮かび上がらせてみせる武田花の魔術的な手腕なんかが混然と存在した中を右往左往していると、作品の放つオーラに肌を焦がされるような気持ちになる。それら木村伊兵衛写真賞の受賞作は時代に迎合した、というわけではないにせよその時をよく現わした作品がやはり選ばれているわけで、20年を越える年月がぎゅうぎゅうに圧縮された濃密な空気にむせ返りそうになる。そして、そういった生理的な感覚をすべてひっくるめたものこそが、きっと時の流れというものなのだ。
 中でも田原桂一の作品が気に入った。曖昧模糊とした中から、あくまでみずからの理性とちからとで何物かを掴み取ろうという意志を感じる写真。
 写真については素人そのもの(笑)なのだけど、いつかは作画の資料としてじゃなくて作品として通用するようなものを撮ってみたいという気持ちを新たにしたのだった☆

京都秋日 (11/6 1997)

 ここんとこ下がったり上がったりな株価も大変だけど下がりっぱなしの気温もたいがい困るよね←うまいっ。

 11/2は某所の某オフということで学祭のところを模擬店を抜け出して一路京都へ。
 会場だったサントリーモルツクラブはいかにも京都らしいしっとりとした街並の中にある、外見と中身のギャップが妙にサイバーな、自家製のビールと併せ実にいい雰囲気の店だった。当初錚々たるメンバーの方々に囲まれてかなり緊張してしまう(根がミーハーだからね、わし)も、皆さんむっちゃええ人で大感激大尊敬(;_;。一色はその厚意の上にあぐらをかいている不届き者(笑)。しかも酔えば画が描けなくなってしまうというのはわれながら新たな発見だった。ああ大顰蹙★
 あと今回判明したことは、家→学校、学校→京都、京都→家、がほぼ同じ時間だということ。つまり径路を考慮しなければこの三者は正三角形の関係にあるわけなのね。んー、何だかなぁ。
 それにしても呑み会に移るまえ嵐山近辺を観光していたときに、松尾大社の屋台で見かけたたまごっちのお面(液晶のところが透明で外界を覗けるようになってはいる。いるけれど……)はかなりインパクト強かった☆ お面、侮り難し。で、この松尾大社(まつのおたいしゃ)、偶然立ち寄ったのだけど酒の神としてかなり由緒正しい神社なのだそうで(マイペディアにも載ってるし)、ちょっと得した気分なのだ。

 (縁起より移動)何故だか最近『京極真珠』という映画が気になってしょうがない。関西では上映しないのかな? 御存知の方は一色まで(笑)。

すき焼きだ、すき焼きだっ! (11/16 1997)

 「すき焼きぐらいで昭和30年代の子供みたいにはしゃぐんじゃないっ」と言ったのはたわばサン(ゆうきまさみ『究極超人あ〜る』)。(5)巻だったか(6)巻だったかは手許に単行本が無いので確認できないんだけどね。

 昨日は模擬店の打ち上げというわけで阿倍野にすき焼きを食べに行ってきた。その店、「2時間食べ放題呑み放題唄い放題」という聞くからに怪しい店で、実際行ってみると予想以上に凄かった。どう凄いのかちょっとここでは書けないぐらい凄かったのだ(笑)。まぁ、そこそこ美味しかったのは事実なわけで、確かにこの味で食べ放題なら、この程度の店員のレヴェルになるのも(特に男子)止むをえんかな、という気もする。これからの忘年会シーズン、怖いモノ見たさで一度行ってみるのもいいかもしれないぞ、とか適当なことを(笑)。

 で、これからが今回の本題。
 その呑み会、午後8時の集合だったのだけど、電車の都合で30分ほど前に阿倍野に着いてしまった。しょうがないのでちょっとそこいら辺をうろうろしてると、阪堺線の上の歩道橋で演奏をしているブラスバンドがあった(確かトランペット、トロンボーン、チューバ、ホルンという編成)。みんな30代の男性で結構淡々と演奏していたのだけど、一色を含めて多くの人の足を止めさせ、ひとつのゆったりとした大気を形成するだけの力を持っていた。辺りは暮れてしまった歩道橋の上、遠くには気の早いクリスマスツリーも見えている。聴衆たちの共通項は今その場を通りかかったということだけ。そういった総てを引っ括めたところに成立している、開かれた空気、或いは開かれた表現、と言うやつがとても心地好く格好良く、音楽にはライブという形態があるから好いよなぁ、とか堪らなく羨ましくなってしまったのだ。うちの楽団(笑)にも、ステージの上なんかじゃなく、街の露地の底、塵芥の中でこそ演奏して欲しいのだとか思ったりして。

 音楽に満ちている小説、といえば尾崎翠『第七官界彷徨』。ちぢれ毛の女の娘と書生とが狂った調律のピアノでコミックオペラを合唱するシーンは、蓋を失くしたように明るく、それと同じだけ透明に哀しい。妙にシンクロしてしまったのは、きっと今の季節に相応しい文章だからなのだろうね。

寒いのイヤ(真尾まお)(12/9 1997)

 これから春まで幾度となく呟くことになる台詞やね。
 (メイポロとはいかなくても)蜂蜜をお湯で割って檸檬を足したのを用意して、チョコをぽりぽりかじりながら雑誌でもぱらぱらと眺めるというのはこの季節の至福のひとつではある。今回用意したのは『AXIS vol.70』と『S.M.H. vol.9』。あとグルグル(9)巻(笑)。
 『AXIS』の特集は「デザイン未来見聞録」。掲載されていた総てのプロダクトの中で、一色は個人に対してのみ開かれた情報の窓、としてのSONYのインフォメーション・ウィンドーという名のプロトモデルにもっとも魅力を感じた。
 『S.M.H.』の特集は「センセーショナル・ミニチュア・ハウス(つまりS.M.H.なのね)」という、思わず『美術新潮』か『太陽』かと思ってしまうような巻頭ではあった(笑)。でもこうしてミニチュア・ハウス(所謂、ドール・ハウス)が『S.M.H.』という場に置かれることで、工芸という底のいい十把をひと絡げにするような理解/誤解から解き放たれ、執念とフェティシズムとに満ちた、それゆえに芸術と呼ばれる物として鑑賞されるのがとてもよかった。総論としてはどちらも◎で、特に『S.M.H.』収録の藤井英俊『COME PLAY MY GAME』は最近のむげにんがテンション低くてどうにもとお嘆きの貴方に好適かも。
 『グルグル(9)』はね……。こう言う漫画を読めて大人になれる子供は、ホント倖せだと思う。「トッピロキー!」はねこぢる/スパイスガールズだと判ってしまうと案外どうってことないけど(それでもどうってことあるけど)79章以降がやたらアツい。「大の大人が本気になって造った子供騙し」としてのエンターテインメントの醍醐味を満喫させてくれる展開で、段落冒頭の感想へと至るのだ(ただでさえこの国にはそういった形でのエンターテインメントがあまりにも乏しいのだから)。実にこの巻へは両手いっぱいの賛辞を以ってもまだ足りないと信じる。

 以下あんまし面白くない話。
 学部卒では学科のバックアップは殆ど期待できないらしく、就職のことを考えると結構暗澹たる気分になってしまう(笑)。とはいえ暗澹たる気分に暗澹としていてもしょうがないわけで、ひとまずは動いてみて逆風がどの程度の物なのかを肌で知るべきだろう。てな訳で資料請求の葉書を書き始めている今日この頃(年が明けたら就職活動日記でも始めようか☆)。んー、「私のセールスポイント」ね……まさかホームページを運営していますとは書けんよなぁ(笑)。尤も大前提として進級できなきゃどうしようもないんだけどね★


Go to older/newer descriptor.
Return to upper/top page.