もの (material) にまつわる憶い出いろいろ
ひのもとの大倭の民も、孤独にて老い漂零へむ時 いたるらし
女の娘二人がオールナイトの映画(ホラー三本立)を観に行く漫画っていうと黒田硫黄『ナイト オブ ザ リヴィングデッド』で、確かにオールナイト映画明けってこんな感じだなぁと先日実感したりして。で、私にとってはこうやって虚構を現実で追体験する機会の方が、むしろ多いような気もする。別にそれがネガティヴな事だとも思わないのだけど。
夕立の降る間際、のようなブルーグレイの空。
初めての街の、初めての坂道を這うように色の無い風が吹き抜けてく。こういう天気がいちばん好い。わけもなく胸がそわそわとして、なにかが始まるような気持ちになって。やがて降りかかるはぱらぱらと疎らな天気雨、狐の嫁入り。鉄塔の端を見遣れば、そこに虹が立ってた。『きんぎょ』。
様々な種類の金魚の写真と、古今の金魚を題材とした工芸、絵画、紋様なんかをぎゅっと寒天で寄せたような本。決して濃くはないけど実に可愛い本で、万国の金魚好きにはなべてオススメ。この本にも何点かの資料を提供しているけど、大和郡山は金魚の繁殖で有名な町で、近鉄電車の車窓から眺めても瓦ぶきの家並みの隙間隙間に貯水池が点在しているのが見えたりして、なんだか独特の雰囲気がある。一緒に購入したのはJAZZTRONIK『SET FREE』とoscillator『popularity』という2枚のCD。どちらも画を描くBGMに丁度いい電気音楽。とくにoscillatorは今回はじめてだったのだけど、好みの音だったのでちょっとシアワセ。2枚CD買って2枚ともアタリだとすごく嬉しいね。
あ、そか。
へインズマニュアルはamazonで買えばいいのか(今年の目標:いまごろ気付かない)。
ぷくぷくと池の底に沈んでしまうかのよう。かぷかぷ笑ってみたりははしないけど。
いかん、楽描きむっちゃ楽しい……(笑)。
(表紙から移動)
ムーノー……じゃなくてニーツオルグは好いなぁ。やっぱこのヒトすごいわ(書かれてあることに同意できるかどうかに関係なく、書かれている文章そのものを信頼できる書き手って、実はそう多くないと思う)。
子供の頃、転倒して膝に大きな擦り傷をつくったことがある。
傷口にガーゼをあて、包帯を巻いたまましばらくすごしていた。消毒のため、包帯を交換する度ごとに見る傷口は、じくじくとした体液に浸されたガーゼが再生してゆく朱い肉にだんだんと呑み込まれていくようにも感じられた。自分の肉体がいったん物質化したあとふたたび肉体に戻っていくさま。そは少しく醜くおぞましい光景だったのだけど、どこかセクシャルにも感じられ、結論として虚ろに心安らかに眺めるほかは無かった。
昨日(5/3)、竹橋の東京国立近代美術館工芸館に「今日の人形芸術:想念の造形」展を観に行ってそんな事を不意に憶い出す。
近代からの創作活動としての人形作品を日本人作家を中心として展示している。工芸館は旧近衛師団司令部庁舎のこじんまりとした建築で、そこにあまり体系化されることなく展示されているところも却ってよかった。
四谷シモンや吉田良一(良)の作品たちの存在感を目の当たりに出来たのも好かったのだけど、大島和代や浜いさを、アクセル・ルーカスといった作家を知ることができたことも私としては嬉しかった。特に浜いさをの「箱の男」連作は私の中でちょっとヒット。美術館という場に展示されるから余計に感じるのだろうけど、彫刻でも無く玩具でも無く人間でも無く、否定詞ばかりを連ねた非常に危ういところに人形は居て、だけどそこから撰ばれたものは、なにかの拍子にネガとポジを入れ換えるよう、芸術というものへとふわりと昇ってしまう。それは羽化にも似た奇妙な感覚で、自分の中のある部位を揺さぶられるような緩慢な衝撃がある。
たとえば彫刻は(非常に特殊なものを除けば)何刻までも遺り続けることをあたりまえのように思い込んでいる。それに対して人形は、時に抗いながらも古寂びて 壊れ 破れ ほつれ 汚れ 毀たれ、やがて何刻かは消え去ってしまうことをどこかで覚悟しているんじゃないかと感じる。人ハイツカ死ヌガ人形ハ永遠ヲ生キ続ケルなんて嘘だ。人形だって、ゆっくりと確実に死んでいくんだ。だから。
知らないあいだに、なんだか世の中、窮屈になってしまったって感じる。
そのすれ違いにいらいらして、叫びたくなるときがある。自分の言葉を持ちたい、持ち続けていたい
塀の中に投げ込まれる情報誌や電波に埋もれないためにも「自分はここにいる」って声を発したい。
出逢っていない人がまだいっぱいいる。
これから出逢える人がまだまだいっぱいいる。
そして、出逢わないかもしれないけれど、言葉をかわさないかもしれないけれど、やっぱり世界は広くて、いろんな人が生きている。ぼくらひとりひとりの力って、
そんなに小さなものじゃないって信じたい。ぼくらはたぶん、その広さを実感できるだけで、もっと明日にわくわくできるんじゃないかって思う。
人と出逢うこと、人と話すこと、泣くこと、笑うこと、遊ぶこと、人を好きになること、誰かに何かを伝えること、
そんなあたりまえの楽しさを、何かと引き換えにしたままでいたくない。イデオロギーなんていらないし、「分かり合おう」とか「つながろう」なんて無理にリキむ必要も無い。
ばらばらのままでいいし、ばらばらのままが楽しい。
ノイズがあって、バグがあって、すれ違って、喧嘩して、泣いて、憂鬱になって、時には、なにもかも投げ出してしまいたくなるときがある。
でも、それでもやっぱり、ざらざらしたノイズが響き合ってるそのままを感じていたいし、何かいいよねって、素直に思えるように生きていたい。
自分の歩幅で、自分のリズムで、自分の足で、自分の時間を刻んでゆくために、
ぼくらは、ぼくらの言葉を持ちたい。ぼくらが生きてる今このときの時代のノイズを、ぼくらの言葉で綴りたい。
(RESet vol.0 / 1995)